【33】追憶の記憶1
沙稀は王を抱えて寝室へと向かっていた。恭良は真横を歩いている。まだ時折、涙を拭いて。
恭良の涙が心を刺す。かつて殺されそうになった、この腕の中の男を悼む涙だと思うと胸をえぐられる想いだ。
父なのだから、嘆いて当然だ。当たり前だ。頭では理解しているのに、ちっとも心が受け付けない。
──この男が、鴻嫗城に来なければ。
たらればばかりが増えていく。
母、紗如は、今でも生きていたかもしれない。
瑠既は、すでに誄と結婚していたかもしれない。いや、それを言うなら沙稀はとうに結婚して、鴻嫗城を継いでいただろう。ふたりとも、子宝に恵まれていたかもしれない。
鴻嫗城を継げないことに、未練があるわけではない。ただ、身長も声も、瑠既に近かったのかもしれないと思ってしまう。剣の動きも、繊細に操ることなど容易かっただろう。何より、クロッカスの色彩を失うことなど──。
感情がかき乱れる。
その乱れる感情を抑える様は、恭良が見たとしても思い違いをすることだろう。それは沙稀にとって都合のいいことすぎて、笑いたくなる。
闇が心を覆う。
あの夜のことを、思い出す。
あの夜、沙稀は体が揺れる感覚で目が覚めた。誰かに抱かれて歩いている感覚。母だろうか──夢と現実をさまよいながら、虚ろに瞳を開ける。母が亡くなったことも忘れて。
視界に入ったのは、王に君臨した男。
驚き、体が固くなる。次の瞬間、男と視線が合った気がした。
急いで瞳を閉じる。
暗闇の中だが、気づかれただろうか。体が震えないように、より強く目をつぶる。恐怖で支配されそうになっても、負けないように気持ちを強く持つ。逃げる隙を待とうと。
だが、そのときはこなかった。
長い時間が経ったように思えた。冷たい風が、肌にここは地下だと伝えてくる。地下には実験施設や装置があり、普段あまり来ない場所だ。
どこへ向かっているのだろうと不安が募る。そんな折、扉を開ける音がした。
──眩しい。
何やらゴトンゴトンと音がする。
体を不安定に抱えられ、不安定すぎて抜け出せないだろうとタイミングをジッと待った。寝ているふりをして。
ところが周囲から強い冷気に、身の危険を感じた。──沙稀は瞳を開ける。
目の前には、不敵に笑う王に君臨した男の汚い顔。真下にはちいさな体がすっぽり入るほどのアクリルケース。
沙稀が目を開けたときはアクリルケースの縁が、肩と同じ高さだった。抜け出せる隙間はない。
だから、暴れるしかなかった。腕と足を精一杯、伸ばす。
「嫌だ! やめろよ! 離せっ!」
必死に手で、足で、男の胸元を突く──が、敵うわけがない。
相手は三十代、沙稀はわずか七歳だ。
護身用の剣も腰にはなかった。まさに、絶体絶命。
そのまま冷たいアクリルケースに押し込められ、透明のふたが閉まっていくのが見える。
「瑠既!」
助けを求められる肉親は、双子の兄しかいない。──もし、この場に瑠既がいて、気を引いてくれればふたりで逃げられた。いや、ふたりで何とか逃げなければ、今度は瑠既の身も危ない。
どうにか時間を稼がなくては、逃げなくては──そう思いながら、沙稀の意識は遠のいていった。
王の寝室に亡きがらを横たえる。長い間、苦しめられた男は──死んだ。
偽りから鴻嫗城に君臨した悔しさ。
幼いころに植え付けられた死の恐怖。
鴻嫗城から『沙稀』という存在を消した憎しみ。
意識を取り戻したあとに受けた屈辱。己への嫌悪。幾重にも重ねてきた殺意。
幾度こらえて今までを過ごしたか。
恐怖に支配して慄くようにしても、傷口は開いていくだけだった。
この男への思いは、何も変わらないまま終わってしまった。
沙稀が次に意識を取り戻したのは、奇跡に等しかった。ただ、わずかに息をできるだけで、体は動かなかった。
微かに動いた首。少しだけ中庭の風景が見える。
女の子がひとり、中庭にいた。──それは、恭良だ。
沙稀の記憶の中では、彼女は一歳。しかし、記憶よりもはるかに大きく、沙稀は見える女の子が恭良だと理解するのに、何十分もかかった。
恭良は五歳になっていた。ひとりで歩いたり走ったり、しゃがんだり、花を見て何かを思うような年齢になっていた。
彼女を恭良だと理解して、己の手足を見る。
──あの日から変わっていない。自分は、どうなってしまっていたのか。
得体の知らない恐怖で覆われそうになったとき、ドアの開く音がした。誰が来たところで、逃げることなどできない。
「沙稀? 沙稀様!」
白髪の男だ。この男は見覚えがあると記憶を辿る。
大臣。
大臣だ。
沙稀の声にならない呼びかけに大臣は瞳を潤ませたが、すぐさま涙を拭ってこう言った。
「これから貴男は、自分で生きていかなくてはなりません」
そう言うと、点滴や呼吸のチューブを次々に抜いていく。
「今夜、王は帰ってきます。貴男が生きていると見つかれば、今度こそ息の根を止められるでしょう」
大臣は──また涙を浮かべているように見えた。
「あの日、瑠既様には鐙鷃城に行くように言いましたが、あれから行方不明のままです。涼舞城は、あのあとすぐに落魄しました」
沙稀の意識はまだ朦朧としている。
大臣は黙々と沙稀に繋がるチューブを抜いていく。すべてのチューブを抜くと、わずかに呼吸する沙稀を抱き上げる。
どこに行くのかと聞きたくても、声が出ない。大臣は部屋を出ると、人気のない方へと歩いていく。不安は募るが、声も出なければ、自由に動くこともできない。ただ沙稀は、大臣に身を任せるしかなかった。
地下へと近づき、沙稀は暴れたくなる。しかし、実際にできることは、大臣をジッと見ることだけだった。
大臣は沙稀を一切見ようとせず、そのまま地下へと降りていく。再び、いや、今度こそ眠り続けるのではないかという恐怖を煽るように、足跡だけが響いた。
揺れる光が、あの日を思い出させる。
「私を憎みなさい」
その言葉はまるで、今までとの決別。
──自分は独りになってしまったんだ。
強烈な孤独感。それでも、動けない沙稀は身を委ねるしかない。こんな身でただ独り。どうなってしまうのか。不安と恐怖につぶされそうになっても、抗う術はない。
恭良にとって王はずっとともにいた、唯一の肉親。実際には何日も会わなくても、これといった会話がなくても、存在してくれているだけで気持ちはまったく違う。
生まれたときから、父がいない沙稀にはわかる。実際に母は何度も体調を崩し、何週間も会えない日が幾度となくあった。生きているのと、亡くなってしまったのでは、まったく違うのだ。
恭良の心中を思うと、胸が痛む。
王を憎む気持ちと、恭良を思う気持ちとの狭間で、沙稀は激しく揺れる。
そうとは知らずに、恭良は静かに沙稀の方を向く。今にもあふれそうに、涙を両目にためて。
「ひとりぼっちになっちゃった」
思わず抱き締める。──目覚めたときに感じた絶望。混沌の不安。鴻嫗城を守らなくてはという重圧。
今、恭良の中にも、それらがざわついていることだろう。少しでもでも恭良の中から消えればいいと一心で願う。
恭良は沙稀の胸の中で子どものように泣きわめく。それでいいと、沙稀は宥める。
しばらくして、ふと気がつく。恭良は沙稀の素性を知らないと。だからこそ、
「凪裟を呼んできます。もう、帰ってきているはずです」
と言った。
誰かがそばに寄り添っていてほしいと願わずにはいられない状況で、居座るべきではないと役割を思い出す。
凪裟は幼いころ城落を経験していて、恭良もそれを知っている。よき友人であり、姉妹のようなものだ。居心地はよく、恭良が落ち着けるだろうという判断をした。
ゆっくりと離れると、名残惜しそうに恭良の手は離れていく。
わずかな無言。
流れるのは、恭良の涙。
沙稀は一歩下がり、深く一礼する。
「失礼します」
そのまま恭良を見ないようにし、退室する。廊下を歩いていても、その足取りは重い。
普段、過去を思い出さないようにしている彼にとって、鮮明に思い出してしまった過去は、今を消し去ってしまうような感覚を与えていた。