【32】柵《シガラミ》(2)
食後に忒畝はバルコニーへと出る。到着するのは、明日の夕方より前くらいになる。
──日が、暮れた。
一面の海。一面の、暗い海の色。濃く深い青。海も空も、大嫌いな色に囲まれる。
──僕の血は、今は……。
歳月を重ねる毎に色は濃く、黒味を帯びていった。黒に近づくほど、死が近づいている証拠だ。
──この海の色と酷似するのは、あとどのくらいだろうか。
残りの時間が知りたいと願う。
死は怖くはない。死は、皆に平等にいつか訪れることだ。時期が、違うだけ。そう思って、幼いころから忒畝はのみ込み、受け入れきた。
命が尽きる前に、柵を断ち切りたい。悠穂を『力』から解放したい。救いたい。それが女悪神の『力』を持たずに産まれ、生きながらえた使命だと思って忒畝は生きている。
切なる願いだ。このままでは、死んでも死にきれない。
今はまだ死ねないと歯を食いしばる。猶予は、刻々と迫っている。
ザアッと、強い風が吹き、忒畝は我に返る。
──遅くならないうちに、戻らないと。
悠穂に心配をかけてしまう。急いで船の中へと戻り、部屋に入る。
悠穂は眠っていた。
妹の寝顔に安心すると、忒畝は上のベッドへと静かに登り、横になる。緊張した糸がプツンと切れたように忒畝の意識は深く沈んだ。そして、すぐに朝日が新しい一日を告げる。
眩しい光を浴びて、空を見上げる。スカイブルーの薄い水色が、忒畝の視界を埋め尽くす。
──今にも、戦いが始まったと……天から血の雨が降りそうだ。
天から血の雨が降ったのは、いつのことか。
そう、あれは、天界から神々が堕ちたあとのこと。
あのとき、地上に降る血の雨の音を聞いて、神々は人としての肉体を得て、これから長い旅をするのだと──。
忒畝はいつ見た夢かとハッとする。少なくとも、今日見ていた夢ではなかった。
奇妙な感覚だが、夢のことを考える暇はないと切り捨てる。ゆっくりとベッドを降り、身支度を済ませる。
腕時計を見ると、朝食をとるにはそろそろ妹を起こさないといけない時間だ。疲れていると思いつつも、忒畝は呼びかける。
「おはよう、悠穂」
しかし、悠穂はまだ夢現だ。
「私……」
夢と現実で混濁している。言葉にならぬ音をムニャムニャ言っていたが、急に意識を取り戻したように兄の手を取る。
「私、お母さんを見かけて。それで……」
「それで、家を出ていったの?」
悠穂はコクンとうなずく。
「そうだったんだね」
忒畝は頭をなでる。
「大丈夫だよ。もう、帰ろうね」
安心させるように言うと、徐々に悠穂の手はゆるみ、しばらくして照れるように離れていった。
「あ……お兄ちゃん、おはよう」
「うん。おはよう。先に行っているから、悠穂も着替えたら食堂においで」
スッと忒畝は離れる。
その背に妹は、
「うん!」
と、返事をした。
部屋を出ると、忒畝は食堂に向かいながら、意識は周囲から隔離される。考えるのは、ひとつではない。ひとつ考えれば、次から次へと問題が広がっていく。
彼女たちの『力』を解放できれば、姿を取り戻せるのかもしれない。『力』から解放する術があるはずだと。
それは、父がずっと研究していたもの。父が見出せなかったものだ。──遺してくれた大事なものに思えてくる。
刻水は例外だ。克主君主の封印の成功例なのだろう。克主君主の願い通り、刻水は聖蓮として、新しい人生を歩んでいた。
だが、それも不安定だったのか。聖蓮という新たな人生を捨て、再び刻水として行動しているように思える。
四戦獣は、また動き出すだろう。動き出したならば今度こそ、終わりにしなければ。そうでなければ、恐らく、また被害は出る。
終わらせる──それは、彼女たちにとっては、時を取り戻すこと。『力』から解放すること。邑樹と時林は、『力』に捉えられたまま終えてしまっている。
『力』を解放できれば、悠穂が万が一覚醒してしまっても、今の姿に戻すことができるかもしれない。覚醒しないままが望ましいが、万が一に備えておくこと。いや、覚醒する前に『力』から解放できたなら、どんなにいいだろう。
尊敬する父と、父が愛した母の血を唯一残せる存在が悠穂だと、忒畝の想いは必死だ。
忒畝は竜称の言葉を思い出す。
『お前にはいい娘を用意している。また、会おうじゃないか』
あれは、どういう意味だったのか。確かなのは、竜称は近々また忒畝の前に現れると予告をされたことだった。