【32】柵《シガラミ》(1)
鴻嫗城を出た忒畝は、悠穂とともに絢朱へと向かう。
悠穂は時折、鴻嫗城を振り返る。衝撃的なことがあった。気持ちが揺れているのかもしれない。
日はまだ高い。悠穂がゆっくり歩いていても、夕刻の船に乗れそうだ。
「ねぇ、お兄ちゃん」
低い門を通り過ぎ、風が木々を揺らしてざわめく中で、幼さの残る声が風に乗る。忒畝は思考を中断して悠穂を見た。
「お母さんは? 確かにいたの!」
母を探しに戻りたいという、苦しい思い。忒畝は初めて悠穂の心残りを知る。
「そうだったのか……僕は会えなかった」
忒畝は竜称としか会わなかった。あの見せしめだけ。脳裏で悲劇が再現される。
──何もできなかった。
過去には戻れない。それならば、今は今、できることをするしかない。
「今は帰ろう。悠穂には体をゆっくり休めてほしい」
悔しい思いとは裏腹に、やさしい口調で労わる。
悠穂は納得できない表情を浮かべたが、悠穂自身、単にわがままだとすでに理解はしている。勝手に家を出て、結局、四戦獣を止めることはできなかった。忒畝に迷惑と心配をかけただけだった。
悠穂にも悠穂の悔しい思いがあるのだろう。瞳を潤ませて、忒畝の左手を強く握る。
忒畝はやさしく握り返す。大切な妹だが、娘のように大事な存在。
帰ろう──言葉にこそしなかったが、ふたりは岐路へとしっかり歩き始める。
絢朱へと着き、渡航の手続きを済ませ、忒畝は馨民に連絡を入れていた。悠穂の無事と、これから帰宅する旨を伝える。緊迫感ない、ほんわりとしたやりとりだ。
──四戦獣のことは、話せないな。
出航の時間が迫る。長電話はできない。それに四戦獣のことを話せる覚悟は、まだないと自覚する。
「じゃあ、明日ね」
「待っているわ。気を付けてね」
ありがとうと言い、静かに受話器を置く。
「悠穂、待たせたね」
兄の気遣いに、妹は首を横に振る。
「乗ろ」
鴻嫗城でのことを吹き飛ばすような笑顔。心配をかけたくないと無邪気に振る舞う姿は悠穂らしい。
ふたりは船の乗り口をまたぐ。
忒畝は何気なく腕時間を見る。まもなく十八時。軽く出船の音が鳴り、船はゆっくりと港を発った。
今日の部屋は簡易的な二段ベッドがあるだけの部屋だ。尚且つ、船の乗り口にも近く、乗客の賑やかな声が時折聞こえる。部屋のランクや位置を気にしないのが、何とも忒畝らしい。もちろん、妹は慣れっこだ。
いや、二十歳になっても、平気で妹と同室にしてしまう兄を心配している節はあるかもしれないが。
忒畝は上着を脱ぐ。忒畝にとって上着は、君主という鎧のようなものだ。
「母さんは……どうだった? 元気だった?」
母との思い出は少ない。忒畝が三歳のとき、突然、姿を消した母。悠穂は一歳のときのことだ。悠穂にとって母との思い出は、皆無に等しいかもしれない。だからこそ、母を求めた。その気持ちは、忒畝にもよくわかる。
「うん……。でも私のこと、わからなかったみたい。ぼうっとしてて、ほとんどひとりの女の人と一緒にいた」
ヤキモチ──とは、違う。寂しいと言いたげな表情だ。
「きれいな人だったよ、お母さんと一緒にいた人。龍声って呼ばれてた」
寂しさを隠すように笑う。その笑みは痛々しい。
ベッドに座る悠穂のとなりに、忒畝は座る。
「龍声?」
「うん」
『龍声』──それは、知らない名だ。四戦獣の記録には『竜称』『邑樹』『時林』そして、母を示す『刻水』の四人しかない。
「あの城で、私はずっとお母さんを追っていたの。そうしたら、お母さんはお姫様を連れていって、邑樹さんと時林さんは……女の人をひどく傷付けてしまった。それで邑樹さんと時林さんは、あの姿のまま命が尽きて……たぶん、時間を取り戻して消えてしまったんだと思う。お母さんは龍声さんと消えてしまったし、私、みんなを止めたいと思ったのに、お母さんを救いたいと思って追ったのに、救えなかった」
悠穂は悲しそうに涙を落とす。
忒畝は妹を慰めるように抱き締める。小刻みに震える肩を抱くのは、兄として辛い。頑張ったなんて、かんたんな言葉で済ましたくもない。
──何も知らないままで、普通の女の子として生きてほしいと願うのは、僕のおごりだろうか。
恐らく、悠穂は五人を遠くから見て、名を確認したのだろう。覚醒後の変形した姿の竜称、邑樹、時林、人の形を取り戻したままの母、聖蓮──ではなく、刻水。そして、女悪神の血は封印後途絶え、忒畝たち兄妹以外の他にはいないと思っていたが、実在した少女『龍声』を。
もしかしたら、悠穂は母、聖蓮を追って他の四人に辿り着いたのかもしれない。様子をうかがい、母を救おうとした。けれど、彼女たちは母の仲間だと理解し、どうしたらいいかと迷っていたら、鴻嫗城の襲撃を行ったのではないだろうか。
それにしても、竜称が悠穂の気配に気づかなかったとは思えない。
忒畝は、四戦獣との柵は己だけでいいと思っている。研究所の君主としての責務だとも。
だが、悠穂も感じていると知った。忒畝と同じような気持ちで、『自分たちの責務』だと。
兄としては、巻き込みたくない。女悪神の『力』を継いでしまっている悠穂が心配だ。
普通の女の子としてだけ過ごして欲しい──それが、忒畝の願い。もし、『覚醒』してしまったら、悠穂は、今のこの姿を保てなくなるのだから。
彼女たちの時間は取り戻せない。いや、取り戻したら最後。塵もなく、消え去る。
だからこそ、彼女たちは他人をも巻き込み、時空を隔てるように消えたり、現れたりできるのだろう。時の異物なのだから。
悠穂が落ち着いたころ、ふたりは食堂に行き、夕食を済ませる。
「おいしー!」
立ち直りが早いのが悠穂のいいところだ。忒畝にもやわらかい表情が戻る。