【31】代償(2)
竜称は動作を止め、視線を忒畝に向ける。無表情から不敵な笑みへと変わり、大きな口がハサミのように開く。
「遅かったな、忒畝」
広い空間に広がる不気味な声。
遅かった──それは、手遅れという意味だろうか。再び竜称は王の口元を見、
「コイツは、ずい分濁っていてひどい」
と口角を鋭利に上げる。バケモノと呼ばれるに相応しい裂けた口が、より大きくなる。
竜称は王の口の前で空気をガッシリとつかみ、ゆっくりと引っ張る動作をさも愉快そうに行う。王の口が徐々に開き、白いものが釣り上げられるように出てくる。今にも、口から転がり出てきそうだ。
忒畝の脳が訴えてくる。あれは、出てきてはいけないものだと。
──あれは『魂』だ。
忒畝は叫ぶ。
「竜称、やめろ!」
その刹那に感じた、懐かしいような気配。忒畝は無意識で振り返る。
そこにいたのは、悠穂と沙稀と恭良だ。忒畝の意識は一時、竜称から離れる。沙稀が悠穂を助けてくれたのではないかと。
その、わずかな時だ。
王の口から、白いもの──『魂』が抜き取られたのは。
その光景を見ていた悠穂が青ざめて叫ぶ。
「お兄ちゃん!」
悠穂の指さした方向を見て、忒畝は息を呑む。王の『魂』が、竜称の手にある。
沙稀は警戒しつつ恭良を降ろし、恭良の前に一歩出る。その光景を、なぜか竜称は満足そうに見ていた。
「これで、役者はそろったか」
竜称の意味深な一言に、忒畝の体に旋律が走る。
遅かったのだ。
竜称は王の口から取り出した『魂』を王の顔の前で転がし、フッと息を吹きかける。すると『魂』は、白い煙の塊だったかのように、丸い形を失った。空気に混ざって少しずつ消えていき、王の体はガクンと脱力する。
「キャー! お父様!」
「あっはっは」
恭良の叫び声をかき消すように、竜称は高々に笑いを響かせる。
王のもとへ駆け出しそうになる恭良を、沙稀は制止。忒畝はジッと憎しみの視線を送る。
無言の深い憎しみを感じ取ったのか、竜称は不敵な笑みを返すと──消えた。
静けさだけが残った。
真っ先に動いたのは、沙稀だ。これ以上の危害はないと判断したのか、恭良に寄り添って王へ近づいていく。
王の前でひざまずき、呼吸と脈、瞳を順に確認する。
「沙稀、お父様は……平気よね? 元気になるわよね?」
恭良の声に、沙稀は理性を保つ。そうしなければ、この世で一番憎い存在を前に触れることも、生きていてほしいとも、到底思えない。
「残念ですが」
こらえる感情は悲しみではない。恭良を思って言える言葉は、これが最上級で。
「嘘……嘘よ」
うろたえる恭良は、王の冷たい手を両手で包む。次第に小刻みに震え始める細い体。寄り添いたい。親族を亡くした痛みはわかる。ましてあんな光景を目の当たりにして、どんなに辛いか。
しかし沙稀には、どうしても──恭良に寄り添いたいとどんなに思っても、王を悼むことはできない。許しがたい憎しみは、深すぎて。
──それにしても。
沙稀には気になったことがあった。王の体温は、死後直後だと思えないほど冷たかった。すぐに駆け付けられたわけではないが、ここまで体温を失うほどの時間は経っていない。
息がなかったのは、ずい分前からだったのかもしれない──が、恭良は気づかないだろう。亡骸に触れたのは、初めてなのだから。
忒畝は悲しみに暮れる恭良と、そこにある重い現実を受け止めるように見つめていた。目の前で父を失った恭良に、寄り添う沙稀に、かけられる言葉はない。巻き込んでしまったと、謝って済むような軽々しい事態ではないのだから。
悲しみ募る光景に背を向け、
「悠穂」
と、忒畝は妹に呼びかける。
「どうして、急にいなくなったの?」
その口調は決して責めるものではなかったが、重いものだ。
悠穂は何も言わずに下を向く。申し訳なさそうに。悠穂は今更になって気づいている。兄が、どれほど心配していたのかを。
忒畝は悠穂を抱き寄せ、頭をなでる。
「無事で、よかった」
母はいないかもしれないと思っていた。悠穂もいないかもしれないと思っていた。
けれど、悠穂はいた。しかも、傷ひとつなく。──それだけで、忒畝には充分だった。
抱き締めて、感覚を確かめ安堵しているようだった。
兄であり、父のような兄妹の再会を、恭良に寄り添っていた沙稀は見ていた。
──ああ、本当に忒畝の妹だったんだな。
疑い、信じて、また疑った少女。
克主研究所に何度も行っていても、何泊をしても、決して会ったことがなかったからこそ、沙稀は悠穂を信じきれなかった。
ただ、それは忒畝の反応を見るまでの話しだ。
純粋に、守りたかっただけだ。悠穂は、四戦獣伝説を知っている人物からすれば、好奇の目を向けたくなる。いや、向けてしまう。悠穂という、一個人を知ろうとする前に。
だからこそ忒畝は、その家族は、彼女を一個人として見てくれる場所だけにいてほしいと願うのだろう。
四戦獣伝説を知っていても、それを忘れてしまうような。彼女の人柄に惹かれる人たちに囲まれていてほしいと願うのだろう。
ふと、忒畝は顔を向けた。だが、それは沙稀の視線に気がついたわけではなかった。
悔しいような、悲しい表情をして命亡き王を見ている。だが、それは数秒。沙稀と視線が合うと、我に返ったように忒畝は会釈をする。
そっと悠穂の背中を押し、ふたりで王の間を退室する。
忒畝が王の間を出てから数歩。真横を通る竜称の姿が視界に入る。体に走る旋律。
止まった足を悟られないように、忒畝は振り返らずに竜称に問う。
「竜称、君の狙いは……」
「そう喚くな。こっちは予定以上に被害を出してしまったんだ」
被害とは何のことを言わんとしているのか、忒畝にはわからない。
「僕がここに来る前に、何があった?」
忒畝は厳しい声で竜称に憎しみを注ぐ。それにも関わらず、竜称は大きな口を吊り上げ笑った。
「お前にはいい娘を用意している。また、会おうじゃないか」
「何のことだ?」
続けざまの竜称の不可解な発言。忒畝の表情が渋くなる。それでも竜称は忒畝の質問に答えることはなく、
「ああ、あと。妹は連れていけ。来られては困るのでな」
と、言った。
忒畝の心臓が止まりそうになる。そう言えば、一緒に王の間から出てきたはずの悠穂がいない。
慌てて周囲を確認する。──悠穂は竜称の右隣にいた。
心臓の鼓動も、首や手首の脈拍も、おかしいリズムを刻む。呼吸困難に陥ってもおかしくない。身の危機と悠穂への危機を感じ、竜称を凝視しようと視線を動かすと──竜称はすでに消えていた。
──これで終わりじゃない。わざわざ僕の前で竜称が王に手をかけたのは……これが『始まり』だという見せしめだ。
鴻嫗城を巻き込んだこと、王の命を犠牲にしてしまったこと、他にも知らない事態の数々。立ち会ったのに防げなかった犠牲を、忒畝は深く後悔をした。