【28】招かざる者(2)
了承はしてくれたが、珍しく本気で怒っているようだ。それでも、沙稀は恭良に付いていくしかない。
ほどなくして、廊下の先にある女子トイレに恭良は立ち入る。
「倭穏さん」
沙稀もすぐにあとを追う。──そこは、広い一室のような空間だ。シックな雰囲気の化粧台と手洗い場、奥には個室がふたつある。
「倭穏さん?」
恭良がもう一度呼びかけるが、返事はない。静まり返っている。
──人の気配がない。
そう感じた沙稀は、恭良の背中に手を回しやや強引に一定の場所まで歩かせる。個室にノックし、施錠されているかを確認する。
結果は、沙稀の感じた通りだった。ふたつの個室は、どちらも施錠されていなかった。中には誰もいない。
「部屋に戻るときに……迷っちゃったのかしら」
「そうかもしれません」
けれど、道は一本道だ。戻る部屋がわからなくなってしまったのなら、沙稀が客間に向かっているときに、途中で会う可能性が高い。ならば、故意に別のところへ行こうとしたと考える方が自然だ。
「では、恭姫。お約束通り、来てくださいますね?」
恭良が倭穏を心配するのは、沙稀にも理解できる。ただ、個人の感情を優先してもいいなら、沙稀は岩が心配だ。緊急ミーティングを行っていた稽古場から、岩の部屋は近い。あの奇声を聞いていただろう。
しかし、今は雑念でしかない。
『でも』と恭良は言いそうだ。だからこそ沙稀は、回答を待たずに膝の裏と背中を支えて抱き上げる。
不意に体が浮いた恭良は驚いたようで、言葉は発せられなかった。
「ちょうど、式の打ち合わせに行っている凪裟が帰ってくるころです。もしかしたら、凪裟が城内で会うかもしれません。……いえ、そうなると、今は願いましょう」
「うん……そうね」
沙稀の言葉はやわらかいが、表情は硬い。恭良は息を呑む。その様子に、沙稀は走り出す。今までの時間を取り戻すかのように。
通常、今のような体勢は不利だ。だが、姫を連れて走る方が沙稀には思うように動けないと感じるのだ。
もし、敵と遭遇した場合、恭良の動きまで気を配るよりも、抱えていた方が姫を庇いやすい。逃走するにしても、同じ。それに、今の体勢のままでも、ある程度の威嚇や反撃ならできる。
向かうは、緊急時用の塔だ。通常なら来た道を戻るが、稽古場の近辺を通るのは危険と判断した沙稀は、紫紺の絨毯が敷かれた区画を目指す。安全に避難するなら、この区画を通るのが一番いいという判断だ。
「無礼を働きます。ご容赦ください」
紫紺の絨毯に足を踏み入れる前に、沙稀は告げる。恭良は何のことかと思ったが、コクリとうなずく。壁の色と装飾が変わり、ようやく恭良は言葉の意味を理解した。
しかし、恭良の理解はそれだけで、道順を把握しているわけではない。けれど、沙稀の足に迷いはなく、隠し通路を駆け抜ける。
この区画さえも明確に知っている沙稀を、恭良は疑問に思う。だが、それは束の間で、護衛はそういう部分まで熟知しているものかと思い、沙稀をより頼もしいと感じて安堵した。
やがて城外に出たそこは、木々や草で鬱蒼としている。茂みの中を沙稀は素早く駆け抜け、塔の入り口へと一直線に向かう。
塔に入っても、油断は禁物。沙稀は警戒しながら螺旋階段を一気に上り、最上階に着く。そこには数日前に見た絵画はなく、ガランとしている。中央で恭良を降ろすと、
「昨日、お兄様が帰っていらしたから……今朝ね、片付けておいたの」
とポツリと言う。ここで絵画を描いていると隠しておきたいなら、賢明な判断だ。
「そうでしたか」
疲れの欠片も感じさずに沙稀は微笑する。しかし、それは一瞬で。すぐさま階段の見える場所へと戻り、立ち止まる。
緊張感漂う姿を見て、恭良はふと思う。
──城に残って、城を護りたいんだろうな。
その思いが伝わったのか、
「ここに恭姫だけが残り、俺に戻っていいなんて……言わないでくださいね」
と、沙稀は寂しそうに言った。
恭良はドキリとする。一方、沙稀は他の気配がないと判断し、恭良と向き合う。
朝食時の気まずさが互いの心に残ってないといえば嘘になるが、気にしている場合ではない。
「俺の役目をお忘れですか? それとも、そんなに信じていただけていないですか?」
明らかに軋んだ空気がふたりの間に流れる。それは、姫と護衛という関係のものではなく。
軋んだ空気は、恭良が首を振ったことで破壊される。
「私は、沙稀を疑ったことなんて、一度もないわ」
おだやかな口調だ。背後で剣を抜かれたときでさえ、信頼していたと告げているように。
恭良のはっきりとした口調に、吸い込まれるような瞳に、沙稀は彼女の芯の強さを見た。いや、何年も見てきたものだ。
恭良に『姫』を感じたと同時に、強く惹かれているもの。この強さはどこからくるのか、彼女を支えているものは何なのか、沙稀に知る術はない。けれど、『姫』である彼女は、すぐに笑顔を失ってしまうような儚い存在でもある。その脆さを、沙稀は守りたいと、何年も思ってきた。
『疑ったことなんて、一度もない』
その言葉は魔法のようで。沙稀は無意識で恭良へと歩き始める。そして、伸ばした手が恭良に触れる刹那。
コツン、コツン……
誰かが螺旋階段を上がってくる音が響く。
沙稀はその音に反応し、意識を取り戻す。緊迫した空気を纏い、すぐさま身構える。
足音が消え、知らない人物が姿を現した。
二十代後半の女性。短いブーツに丈の長い白のAラインワンピース。ドレス素材のようなしっとりとした生地ではなく、しっかりとした生地。見たことのない、独特な模様が刺繍されている。
沙稀よりもゆるく一束に結われた髪の毛は、光に透き通るような美しさ。煌めく光を受けて、正確な色はわからない。
沙稀は鋭く見、剣を向ける。すると、女性は大きなアクアの瞳で一度剣先を見たが、すぐに沙稀に視線を戻すと微笑み、何事もなかったかのように近づいてくる。
確かに殺意を向けているのに、近づく女性。やわらかな笑みに、なぜかじんわりと畏怖が沸く。
二十畳ほどの煉瓦に囲まれた空間で、きれいに光を反射させながらゆったりとなびく髪。その色がようやく認識できたのは、剣を伸ばせば届く位置まで女性が来たときだ。
沙稀は心臓が止まりそうになる。
女性が間近まで来たことにではなく、その髪の毛の色に。その色は、白緑色──認識してすぐ、畏怖は嫌な予感に変わる。
「恭姫! 離れてくださ……」
「え?」
恭良を庇おうと振り返ったときは、遅かった。
悪意も、憎しみもないふしぎな感覚に、恭良は呆然としていた。その隙に、恭良の右手を、女性が両手で包む。
そして、女性が恭良を見てにっこりと微笑むと、ふたりの姿は跡形もなく消えた。