【27】平穏の終わりへのカウントダウン_1(2)
ふたりの視線はしばらく離れなかった。互いに見つめたまま、時が止まっていた。
恭良は沙稀の言葉を待ったが、何も言えないでいる様子に顔を歪めて離れる。背を向け、部屋から出ていく。
気づくと沙稀は力無く歩いていた。今はただ、護衛としての責務を果たさねばと使命感だけが体を動かしている。
どんな理由であれ、護衛が姫を泣かせたなど許されない──そんな鬱屈した気持ちで辿り着いた先は、大臣の部屋だ。
静かにノックをする。返答を確認し、沙稀はドアを重そうに開ける。
「大臣」
呼びかけに大臣は驚く。視線を向けなくても、訪ねてきた相手を判断して。ただし、沈んだ声を気にかけるそぶりもせず、大臣は忙しく業務を続ける。
「どうしたのですか? 珍しいですね、沙稀様がいらっしゃるとは」
「俺が大臣に話さないといけないと思っていた話は、瑠既のことだ」
沙稀の言葉を耳にして、大臣はギョッとする。
ドアの閉まった音も、部屋に入ってきた足音もしていなかった。つまり、部屋は密室ではない。沙稀の発言は廊下にだだ漏れだ。慌てた大臣は書類を置き、急いで沙稀を部屋に入れる。
廊下を見渡すが、幸い誰もいないようだ。
大臣は胸をなで下ろし、ドアを閉める。
「でしょうね。瑠既様がご帰城したとき、察しは付きました。どこかで会ったのだとしても、あの髪では……何と言おうかと迷ったのではないかと」
わずかに沙稀は首を縦にする。しかし、言葉は出てこない。
「それで、どうしましたか?」
「俺が帰ってきたとき、大臣は『俺が話をしたら』と言った。だから、話しに来た」
大臣は首を傾げる。要点がつかめない。
「それは……つまり……ああ、恭良様のご婚約話を進めてほしいということですか?」
「そうだ」
いつになく、沙稀の声はちいさい。しかも、歯切れも悪く感じる。
──何かが、あった。
大臣の直観だ。こんな魂の抜けたような沙稀は見たことがない。
「わかりました。相手の見当を付けていたところなので、日取りの調整に入りましょう。ただ……何があったのか、教えてくれませんか?」
大臣が聞くと、沙稀は明らかに動揺する。それでも、言わなければならないと観念すると、先ほどよりもしっかりとした声で言う。
「恭姫を泣かせてしまった……申し訳ない」
「何を、なさったのです?」
沙稀は大臣を見ようとしない。だが、沙稀の様子を見て故意に何かをした訳ではないと大臣は判断する。
予想外のことが起きたとき、沙稀は言葉をさがすようにしばらく何も言えないときがある。幼いころから接してきた大臣だからこそ、理解できることだ。
何も言わなくてもいいと、大臣が言おうとしたとき、
「もう、これ以上……近づくわけには……」
震えそうな声を呑み込むように、沙稀の声は途切れる。
大臣は数日前に、絵画の間で沙稀と会った日を思い出す。沙稀には鴻嫗城を継ぐ気はすでにない。あくまでも、鴻嫗城を継ぐのは恭良で、秘めた想いは秘めたままにするつもりだ。大臣が見ていても、恭良の想い人はただひとりなのに。
そもそも、沙稀を恭良の護衛にしたのは、誰よりも信頼できたからだった。鴻嫗城を誰よりも想っている人物は、沙稀しかいないと思ったからだ。それに、幼かったころを思い出すと、恭良なら──閉ざしてしまった沙稀の心をほぐすこともできるだろうと思っていた。
まさか今のような関係になるとは、思ってもいなかった。少なくとも沙稀は、恭良を異性として意識することはないと思っていた。けれど、そうではなく。逆に、こんなに苦しめる結果になってしまっている。
ふと、大臣は沙稀の視線を感じだが、それは一瞬だった。甘えを見せたくないと恥じるように、沙稀は部屋を出ていく。
その姿に、
「だから……貴男も泣きそうなんですか」
と大臣は呟いた。
沙稀は大臣の部屋を出たあと、戻ろうと廊下を歩く。本来ならば部屋を飛び出した恭良を探した方がいいのだろうが、ふたりだけになっては気まずい。
だが、前方に恭良がいた。誰かと話している。話している相手は倭穏だ。恭良が部屋を出ていったあと、倭穏が追ったのだろうか。その辺りの記憶が飛んでいる沙稀には、正確なことはわからない。
倭穏のとなりには、瑠既が何も言わずに壁に寄りかかっている。徐々に距離が縮まると、大きな声で話す倭穏の声が聞こえてきた。沙稀の足は、ゆっくりと止まる。
「恭ちゃん。ずっとそばにいてもらえるだけじゃ、満足できないの?」
「私は、あなたとお兄様が羨ましい」
恭良は敬称など気にせずに、落ち込んだ様子で話している。
「瑠既が婚約者と結婚したら、それこそ私は二度と会えないわ。それよりも結婚なんて関係なく、あなたはずっと、好きな人の近くにいられるじゃない」
下を見ていた恭良だが、赤くした目で倭穏をジッと見る。反論するような瞳を恭良がするのは、珍しい。
「沙稀が結婚したら、私も倭穏さんと同じになるわ」
「恭ちゃん、あなたって本当にお姫様なのね。沙稀がそういうことのできるような、器用な人だと思っているの?」
「どういう意味?」
「沙稀が自分の立場を放棄して、恋愛もしくは家庭を築くなんて、私には到底思えないわって意味よ」
ふと、倭穏は少し離れたところで足を止めていた沙稀に気づく。スタスタと近づいてきて、
「貴男も貴男よ。男らしくないわ!」
と、沙稀にまで話しかけてきた。互いに話すのは初めてにも関わらず、誰にでも変わらないその態度に、悪い気はしない。
「どうするべきだと言いたいの?」
「好きなら好きだとはっきり言うべきだわ。何も言わないでいることが女性を傷つけるって知らないから、平気でそんな態度をとれるのね。卑怯よ」
「言いたくても言えない立場があると知らないから、君はそう言えるんだよ」
「そうよ、私は立場なんて無縁な環境で育ってきたもの。だから、『違う』とでも言うの? 自分の気持ちに素直になればすぐにでも結ばれて、ふたりで幸せになれるじゃない! そういう好きとか幸せとかいう感情は、立場のあるここの人たちと、立場なんてない私とじゃ違うわけ?」
感情的に言う倭穏の言葉が、沙稀には羨ましい。
「たぶん、同じだろうね」
沙稀は淡々と答える。一方の倭穏は次第に涙まで浮かべ、感情的になっていると自覚していた。
倭穏は不愉快だった。それが露骨に表情に出ている。
「いい加減、やめないか。言いたい放題言っただろ」
だからこそ、瑠既は倭穏を止めた。しかし、倭穏は急には感情を抑えられない。今度は、瑠既に対して言う。
「私はね、こういうヤキモキした態度が嫌なだけよ。純粋ぶってて、自分だけを護って。好きだと言わないことを正当化して、相手を傷付けてるって気づこうともしないのが! ……瑠既もそうだわ」
倭穏は瑠既に一番言いたかったようだ。瑠既としては、火の粉が飛んできた──そんな感じだが。
「何?」
「婚約者のお姫様のところに行っちゃいなさいよ。同情だけで一緒にいる関係は、終わりでいいわ」
「俺はお前をそんな扱いしたことねぇよ」
瑠既は甚だしいと、感情を抑えない。
「そうかしら? 婚約者と会わないふりして会えないのは、私がここに付いてきてしまったからでしょ?」
「んじゃあ、俺が会って、断ってくれば納得するんだな。わかった。言ってきてやるよ」
瑠既は苛立った顔のまま倭穏を通過する。沙稀をチラリと見たが、すれ違っただけだった。
倭穏は瑠既の背に、フンと鼻を鳴らす。そして、
「恭ちゃん、ちょっとお話しましょ」
と、恭良を誘い、ふたりは沙稀の前を通り過ぎていった。