【27】平穏の終わりへのカウントダウン_1(1)
瑠既は朝食を食べていた。となりは恭良だ。昨夜と同じなのは、席の配置と部屋だけではない。恭良のなれなれしさも、涼しい顔で恭良に話を合わす沙稀の態度もだ。
違ったことは、ひとつ。左前方で話しかけてくる倭穏だ。昨日の繰り返しにうんざりしているところに、喧嘩を売るような声をかけてきた。
「ねぇ、瑠既は私のこと、本っ当に好きなの?」
倭穏は周囲を気にするそぶりなく、荒げた口調で言う。
これには訳がある。
朝食の前に、大臣に会った。もちろん、瑠既は倭穏と一緒だった。
「昨夜は、別の部屋でお休みでしたね?」
眉間にしわを寄せる大臣に、
「周囲に声をまき散らせるようにうるさくして迷惑かけたなら謝るけど、おとなーしく、しずかーに、いい子に寝てけど……何か不満でも?」
と、欲求不満をぶつけるように返した。すると、大臣は反撃をしてきた。
「婚約者様がお待ちです。恭良様とのお食事が終わりましたら、お会いいただきたく……」
「会わない」
「婚約者?」
瑠既はスッパリと切り落としたと思ったら、倭穏が反応した。
遠くから誰かの走る音が聞こえた気がしたが、瑠既は視線を移すこともできなかった。倭穏が、尋問のように責め立てて。
気力なく答えたのが、生返事のように聞こえたのだろうか。──それから、これである。
「ねぇ、瑠既は私のこと、本っ当に好きなの?」
何回肯定しても、これだ。
瑠既に対する言葉は、恭良と沙稀の耳にも入り、自然とその会話を意識させる。
「ちゃんと言っただろ! 『俺はお前を愛してる』って。信じてねぇのかよ」
「だって、婚約者がいるんでしょ。結婚、するんでしょ!」
「あ? んなこと言うならなぁ、今すぐここでヤッてやろうか?」
まさに売り言葉に買い言葉状態。
卑猥な言葉に反応したのは沙稀だ。ガタンと勢いよく椅子から立ち上がると、騒がしい方へと向かっていく。
一方の瑠既は発言のあとに倭穏を強く引き寄せ、彼女の頭部を右手で押さえつける。
恭良は状況把握がまったくできず、きょとんと沙稀を目で追う。しかし、それが悪かった。あろうことか、恭良は間近で濃厚なものを瞳に映してしまう。
神聖な挙式での誓いとしてのイメージ──まして姉と慕う誄と、その姉が大好きな兄との美しいイメージ──を思い描いていた恭良には、衝撃が強すぎた。
瞳が映したそれは、愛し合うふたりがむさぼるように求め合う光景で──イメージとは、ほど遠くて。
恭良の顔はみるみる赤く染まり、息をするのも忘れてしまうほど。ハッと息を吸って我を取り戻すと、慌てて視線を逸らす。──この間、十数秒。沙稀の移動時間だけだったが、長く感じられた時間だ。
「お取り込み中、申し訳ありません」
申し訳ないとは思っていない沙稀の声が途切れ、瑠既の首を猫のようにつかむ。
瑠既からすれば、突然、倭穏との距離が開いて状況把握ができなかったのだろう。人影を不機嫌そうに見上げる。
「あ?」
「あ? ではなく! この場でそのようなことはおやめください。貴男様の妹君、恭良様もいらっしゃるのですから」
瑠既は、自分をつかんだのは沙稀だったとわかると、妙に冷静になった。婚約の上塗りはできないが、現状、身内というべき恭良の前でのこの行動は、初めてということになる。
どちらを優先されるかは、わからない。いや、大臣がいたとしたら、無効だと言い張るに決まっている。
「ああ、悪いな」
サッと倭穏から手を離す瞬間、怒る彼の耳が赤いのを目に留める。だが、すぐには言わない。瑠既は、そのまま手の平を広げ、両手を上げる。
一方の沙稀は、瑠既にからかわれている印象を受けた。不愉快で瑠既の首から手を放す。
踵を返し、瑠既を視界に入れないようにし、苛立ちを抑えようとした──しかし、沙稀の心情など測ろうとしない瑠既は、待っていましたとばかりに、彼の背中に向かって言う。
「お前、耳赤くなってるよ」
「誰のせいだと思っていらっしゃるのですかっ!」
沙稀は言葉遣いこそ気を付けられたものの、つい反論してしまったと後悔する。
冷静になれと言い聞かしても、感情を抑えられるほどの余裕がない。沙稀も年頃のひとりの男だ。好きな異性の近くであんな光景を見て、その気を起こさないようにするのに必死である。
瑠既は面白半分で沙稀をからかう。斜めに俯いて言葉を投げ付けてきた彼の顔が見えていたわけではないが、
「あら、顔まで赤くなっちゃったね」
と。これは追い討ちだ。
今度こそは反応しまいと、沙稀は苛立たしさをこらえて席に着こうとする。感情を鎮められないまま、恭良の見える位置まで来てしまったのは、理解している。
──不覚だ。
一気に感情は沈む。そのときだ。
目の前をクロッカスの髪がなびいて、通過していった。
その、わずかな数秒が沙稀にとっては数分間に感じられる。状況を理解するのに時間がかかる。何が、どうなったのだろうと。
恭良が沙稀を見るなり走り出していたと理解できたのは数秒後だったが、体感では数分だった。
時間が元の速さで沙稀に流れたとき、彼は恭良を追っていた。
「恭姫?」
近い距離で声をかけると、恭良はその声に反応して立ち止まった。
沙稀は手を伸ばせば届く距離を保つ。元々は、恭良と沙稀はこの距離感だった。遠すぎず、近すぎない距離。互いに手を伸ばせば届くが、よほどのことがなければ伸ばしてはいけないとわかっていた。
何度も、何十回も、よほどのことがなければ昨夜のような距離になることも、なかったはずなのに。いつからだっただろう。この距離を、保てなくなったのは。
恭良は振り返り、沙稀を見た。その顔は、赤いままだ。
沙稀は恭良の表情の理由を探し始める。しかし、恭良が再び動き出したと感じ、思考は途切れた。
思考が途切れたのは、恭良が再び動き出したからだったはずで。でも、違ったのかもしれないと疑う。恭良は、沙稀の胸に飛び込んできていたから。
腰の辺りから、服を強くつかんでいる感覚が沙稀に伝わる。伝わってくるのは、必死な想いも。けれど、それは沙稀が受け止めては、感じ取ってはいけないもの。
似たような経験はある。だからこそ、冷静に対応すれば大丈夫だと、沙稀は冷静さを失わないようにと注視する。
「恭姫……どうしたのですか?」
しかし、今回は当てはまらなかった。
宥めた途端に、恭良は泣き出してしまった。
状況を改善させようとした結果の現状に、沙稀は声を詰まらせる。言葉にならない言葉を何とか言おうとしていると、ふと恭良が顔を上げた。
沙稀は恭良が泣き止んだのかと胸をなで下そうとしたが、それは束の間。恭良の涙は止まってはいない。至近距離で涙を落とす顔を見て、沙稀の頭の中から言葉という存在が消えていく。
「沙稀は……沙稀は! こんなときでも私を姫として扱うのね! 私は……沙稀にとって、ひとりの女としては見てもらえないの?」