【23】恋人(1)
沙稀と瑠既が部屋から出て、廊下の絨毯が紫紺から濃い赤紫に変わるころ、前方から大臣が来るのが見えた。
「お着替えを用意いたしました。ご夕食の間にベッドの入れ替えをしておきます。一先ず、お着替えだけでもなさってください」
大臣は今夜から奥の部屋を使用するようにと促す。しかし、瑠既は首を横に振る。
「俺にはもう、そんな資格ねぇんだよ」
大臣は言葉の意味をすぐにつかめず沙稀を見たが、見られた方は横目で察知すると、髪に触れた。
瑠既を見直し、大臣は納得する。確かにその髪は短い。当然、大臣も短髪が示す意味を理解している。
「その髪でしたら、時間が解決します」
拒否した理由を大臣は笑顔で受け流したが、
「そうじゃなくて」
と、瑠既は食い下がる。はっきり言わない意図を大臣は汲み取り、聞き返す。
「お連れの方、ですか」
すると、想定外な言葉が返ってきた。
「それ以外でも」
瑠既の不満そうな視線は、大臣から一切逸れていない。
瞬時、流れる沈黙。
沙稀は半笑を浮かべ、呆れたような小声がもれる。その反応に、大臣はハッとする。
「何をなさっていたのですか、貴男は!」
「だから、俺にはもうそーゆー資格ないから」
軽々しい瑠既の態度に、大臣は悔しいと言わんばかりに口を閉じる。変わりに口を開いたのは沙稀だ。
「誄姫が待っている。自らした約束は覚えているだろ」
呆れた分、口調は厳しい。続いて大臣も賛同するように言う。
「誄姫はずっと貴男をお待ちしていたのですよ。『自分のために産まれてきた人だ』と言っていたのは貴男です」
「大臣に鴻嫗城でそう言う前に、鐙鷃城で見届け人になっていたのは俺だ。初めての口づけを肉親の前で行う──それが正式な婚約の証だと、認識はあっただろう?」
大臣と沙稀に正論を言われても、
「ちぃさいときの話だよ」
と、まるで他人事のように言った瑠既に、大臣は苛立ちを解放する。
「それを、誄姫に言えるなら言ってくださいね!」
大臣は一歩近づくと、着替えを無理に受け取らせる。
「お待ちですから、着替えていらしてください」
大臣はそのままその場をあとにしようとしたが、瑠既に服を押し返されてしまった。
「何を……」
「それを着る資格もないってこと。それでも、どうしても会わないといけないなら、このままで会う。そうすれば……誄姫も、わかると思うから。……それより、倭穏はどこだ? アイツには話さないといけないことがある」
どうあっても、瑠既は婚約を破棄するつもりだ。それを察知したのか、沙稀は提案をする。
「大臣、折角来てもらった誄姫には申し訳ないが、今日のところはお帰りいただこう」
「沙稀様?」
「会いたいと言う方がいるんだ。お連れしろ」
視線は大臣に動き、口調には怒りがこもっている。
「その変わり」
沙稀は大臣の手元から衣類を受け取り、
「恭姫とは会っていただく。そのときには、せめて正装を」
ポンと瑠既の胸に突き付ける。
「夕飯前に迎えに上がる」
ジッと瑠既を見た沙稀は、
「では、俺はこれで」
と、否応なしに約束を取り付け、ツカツカと歩き始める。それも、一度出た区画内の深部へと向かって。
恐らく、誄の待つ部屋に心あたりがあるのだろう。城内を知り尽くしているからこそ、歩いていく方向だ。
一方、残された大臣は渋々、
「では、お連れ様のお部屋へ……一先ずご案内いたします」
と、歩き始める。もちろん、沙稀とは反対方向だ。
歩き出しても大臣の不機嫌は直らない。むしろ、いつになく不機嫌だと言ってもいい。
「ねぇ、俺さ、夕飯も倭穏と部屋で食いたいんだけど」
「駄目です」
「じゃ、まさか恭良とふたりでってことはねぇよな?」
「存知上げません」
「冷てぇな。……沙稀はああ言ったけどさ、大臣なら沙稀を説得できんだろ?」
「できません」
大臣はあっさりと答える。しかし、瑠既は懲りない。
「またまたぁ。大臣は嘘をつくのが得意だからな。『仕事の一環です』とか何とか言いつつ、ホラを吹くって感じ?」
調子よくしゃべる瑠既に大臣はピタリと足を止める。これには、さすがに瑠既の足も止まる。
大臣は振り向く。よく見れば、大臣の背には扉がある。単に、案内が終わったということだ。ただ、大臣の機嫌は最後まで回復しなかった。
「勝手になさい」
幼い子を叱るように言い放つと、その場を立ち去る。
瑠既は振り返り、しばらく大臣の背を眺める。
「何だよ」
不満がもれる。あんなに大臣に冷たくされたことはない。久しぶりに会ったからと言って、関係が崩れるとは思いもしなかった。
「でも、まぁ……ああいう態度ならそれはそれで、いいか」
どうせ長居をするわけではない。そして、鴻嫗城を出てしまえば、それが最後。後ろ髪を引かれる思いをしないでいいと思えば、気楽とも思えた。
瑠既は扉を開ける。
「よぉ、待たせたな」
鍵は開いていた。倭穏は待っていたと瑠既には伝わる。
倭穏はベッドの上に座っていた。となりに瑠既は座る。
「夕食の前に着替えろって言われちゃった」
「お偉いさんみたいになるの?」
「さぁ? 正装するだけだけど」
「へぇ~」
倭穏は瑠既の手元にある服をジロジロとのぞき込む。そして、視線を瑠既に戻すと、照れた表情を浮かべる。
「格好いいんだろぉね。一番に見たいなっ」
倭穏の無邪気な言動に、
「よし、着替えっか」
と、瑠既は立ち上がる。
瑠既はボタンを外し始めたが、倭穏は瑠既を見上げたままだ。
「着替えるとこまで見てる気?」
瑠既はニヤリと笑う。だが、倭穏は照れもしない。
「何よ~、変化を楽しんでもいいじゃない」
「あのな、変化ってのはじっくりその様を見るより、ビフォーアフターを見た方が楽しいの」
倭穏は疑うような視線を送る。
「ほんと?」
「騙されたと思って、あっち向いてろ。着替えたら声かけるから」
瑠既は手を倭穏に向け閉じたり、開いたりを繰り返す。その動作に倭穏は不平をもらしながらも、瑠既に背を向ける。
「も~い~か~い」
背を向けてすぐの発言に、瑠既はつっこみを入れたくなる。だが、
「まぁだだよ」
と、調子を合わせた。
そんなやりとりは何度か繰り返され、
「もぉい~よ」
と、瑠既は答える。倭穏がパッと振り向くと、
「お待たせいたしました」
と、両手を広げて見せる。──しかし、返答はない。
「どお?」
もう一度、瑠既が問うと、倭穏は後ろを向く。
「何? はっきり言えって」




