3・触れる前に
恋は理屈ではない──実感してしまったら、受け止めるしかなく。ただ浮かれ気味だと、留唏は人目を多少気にする。
意識していないとどうしても顔の筋肉がゆるむ。愛に好意を持たれているかもしれないと思うだけで。
だから思考を消そうとするが、この多幸感を消したくないとも心が揺れる。
──恋愛って難しいな。
一喜一憂を楽しむ余裕がない。想像していた恋愛とはまったく違う。想像していた恋愛は、もっと──。
──柄にもない。
何を焦っているのか。感情に振り回されているのか。せめて、愛に気づかれないよう、余裕があるように振る舞おうと心がける。
それが功を奏したのか、しばらくして愛が留唏に対しポソリと口を開くようになった。
一度話せば、二度、三度と言葉を交わせるようになり。それがいつしか会話になり。初対面での悪印象を払拭したかのように、距離が次第に縮まっていった。
そうして、友達のような距離になれたと留唏が自覚したころには、最終学年のクラス表を見上げていた。
黎と愛のクラスは離れたが、奇跡的に留唏は愛と同じクラスになった。黎がいなくても、少し前から愛とふたりだけで話せるような間柄になっていたこともあり、留唏は愛と必然的に一緒にいる時間が増えた。
行きも帰りも三人でいて──黎がこれまで以上ににこにこしている気がする。
留唏は、これまで取り持ってくれた黎にこっそりと感謝した。
そんな日々が続いていたある日、愛は留唏に言いにくそうに口を開く。
「家具を移動したいんだけど……その、できれば男の人の力を借りたくて。お願いできないかしら?」
黎がクラスの用事でいない、ふたりきりの帰り道。夏の手前でまだしばらく辺りは明るい。
近頃、ひとり暮らしをしたばかりだと言っていた。愛の部屋を一目見てみたいと思っていたが、こんな機会が巡ってくるとは。留唏は驚き、つい問う。
「家に行ってもいいの?」
「そうなるけど……」
「ど?」
歯切れの悪い返答に留唏が聞き返すと、愛はムッとした表情で言う。
「変なことしないでね」
ドキリとし、逆に瞬時やましい方向へ思考が飛ぶ。
「へぇ、意識してくれるんだ?」
にやりと口元を上げ留唏がからかえば、愛は耳まで赤くなった。
──おっ?
かわいいなと見惚れれば、
「やっぱり駄目。来ないで」
愛の歩く速度が上がる。スタスタといく後ろ姿は、親しくなる前のツンとした態度のよう。
留唏の余裕は急激になくなる。美しい黒髪が遠のいていき、慌てて愛を追いかける。
「悪かったよ!」
留唏が叫んで詫びれば振り向くも、愛はすぐにまた背を向け歩いていく。
惚れた弱みだ。留唏は許しを乞うしかない。早足で追いかけ、必死に機嫌を取るような言葉を次々投げかける。移動を仮定した作業のことや、たわいのないこと──を言ってみても、愛は一向に返事をしてくれない。
親しくなる前の辛い記憶が蘇る。
けれど、一度『来ないで』と言われただけで、『帰って』と言われない。留唏は言葉の続く限り言葉を並べ、付いていく。
すると、唐突に愛が立ち止まった。
「変なことしないって約束できるの? できないの?」
いつの間にか、玄関の前だった。
「約束します」
留唏が真摯な態度で即答すると、愛は仕方ないと言わんばかりにため息をつく。それでも留唏は嫌な気はせず、むしろホッと胸をなで下ろす。
愛は困っていて、背に腹はかえられないと留唏を招いたのかもしれないが──どんなに一方的に怒られようとも、好きなのだ。謝って許してくれるのなら、許してくれるまで謝ることに抵抗はない。
「どうぞ」
「お邪魔します」
カチャリと開いた空間に引き寄せられる。
黎以外の女性の部屋へ入るのは初めてだ。しかも、一部屋というより、一室。特別な空間に、留唏の鼓動は高鳴る。
ドキドキしながら入室すると、アイボリーの物が多く目に入ってきた。丸く大きなラグ、同色の丸いクッション。カーテンも同色だ。室内はやわからい雰囲気が漂っている。
もっとはっきりした色を勝手にイメージしていたが、愛は留唏が抱いていたイメージとは違うのかも知れない。
「これなんだけど……」
ふと聞こえた声に顔を上げる。見れば、確かに女性がひとりで持つには大変そうな大きさの棚がある。
留唏はひとりでも持てそうな気がしたが、一緒に何かをしてみたいと恋心がうずいた。
「どこに移動する?」
「こっちに」
左端を指す。
ひとり暮らしの家だ。距離はさほどない。
「悪いんだけど、ちょっと大きいから……一緒に持ってくれる?」
自分の都合だからか、愛は慌てたように留唏の対面に来る。
「いいか?」
留唏の問いに愛はコクンとうなずく。
「せーのっ」
から始まり、
「どっち向きにする?」
「手、挟まないように気を付けて」
など、無事に置くまで多少騒がしく言葉をいくつか交わした。
「ありがとう」
『助かったわ』という姿は、いつになくしおらしく──留唏の足はフラリと愛へと向かう。
キュッと抱き寄せれば、愛は驚いたかのように身を固くした。好きだとはまだ言ってない。けれど、気持ちはだだ漏れだっただろう。いつだって、気を引きたくて近くにいたのだ。
気持ちがあふれて、唇が頬に触れた。這うように耳元へ移動し、耳たぶに触れる。食み、もれた言葉は──。
真名だ。だが、留唏は言語として認識ができない。それに戸惑いを覚えた刹那、愛の手がグッと留唏の背に触れた。
求められた感覚は、欲を刺激し──唇を重ねる。そこでまた、真名を呼び意識が一瞬飛んだ。
真名は存在の名。惹かれていたというより、探していた者だったのだ。
食めば返ってきて、それを幾度か繰り返し心地よさに沈みそうになる。刹那、愛が留唏の胸を押した。
名残惜しく唇を離し向かい合えば、愛は気恥ずかしそうに顔を背ける。
「変なことしないって……約束、したのに……」
あんなに求め合ったあとで、何を言うかと思えば。ただ、思ったままを言葉にすれば、拒絶されるくらいの予想は付く。
「変なことは、してないつもりだよ」
やさしく囁くように言えば、愛の瞳が疑うように動いた。
「もう駄目」
そう言いつつも、留唏の胸を押した手は、しっかりと服を握っていて。言動がチグハグで、留唏は引くより押す方を選んだ。
結局、愛の言動の不一致は、終始続き──あまりにも顔を真っ赤にしてかわいいものだから、留唏は機嫌を損なわないようにするのが精一杯だった。
だからか、事後に気づく。
あれほど拒否をされたのは、告白をまだしていなかったからではないか、と。
「好きだよ。付き合ってくれるよね?」
留唏が言えば、また愛は顔を真っ赤にして──それはそれは一段とかわいらしくなる。
「そういうことは、触れる前に言って……」
了承の返事はもらえなかったけれど、留唏にとってはそれどころではない事態だ。
留唏は再び愛を抱き締める。
何度も謝り、何度も愛を囁いた。
付き合ってからの愛は、これまでが嘘かのようによく笑うようになった。すっかりやわらかいイメージが留唏には定着する。
付き合う前に感じていたキツイ印象は、距離感をわざと出すため──いわば防波堤だったのかもしれない。
不用意に近づかれるのがそれだけ不安だったのだろうと、留唏は解釈している。
『彼女』になった愛は、実に素直だ。ほがらかだ。留唏は程よい緊張と胸の高鳴りを心地よく感じる。
しかし、美しさに見とれて緊張しそうにもなる。ただ、それでは頼りがいがないと自らを律する。
留唏は愛に頼られる存在でありたいのだ。心の焦りは見抜かれたくない。だから、余裕そうな表情を浮かべ、少しだけ不真面目に振る舞う。
愛があまりにもかわいいと、つい、からかう。すると、恥ずかしがったり、ツンとしたりするから、それもまたかわいいと留唏は笑ってしまう。
その留唏の反応に、愛は機嫌が斜めになる。だから最終的には、留唏は平謝りに転じる。
そうして数年が過ぎていき、留唏は心を決めた。
「結婚してほしい」
幾度となく重ねた、愛の家でのデート。思い返せば、荷物の移動で初めてこの部屋に入った。
あのときは頼まれてうれしかった。勇気を出し、関係を踏み込んだから恋人になれた。付き合えてからは、夢のような日々だった。
コロコロと変わる表情も、おだやかなときも、どんなときもずっと好きだった。永遠にこのときが続けばいいと思うほど、いつまでも見つめていたい。
きっと、これからも、どんな愛でも気持ちは変わらない。
『頼む』と必死になって頭を下げると、愛の笑い声が聞こえてきた。緊張が和らいで留唏は頭を上げる。
愛は、いつになく楽しそうに笑っていた。
「どうしてそんなに笑うの?」
恥ずかしさを覚えながら留唏は問う。
「だって……」