2・マナ
「お兄様、待っていてくださったんです? あ、今呼びますね!」
突然聞こえた黎の声に、留唏は驚く。どうやら留唏が見とれていた間に、黎は気づき近くへ来ていたようだ。
黎はわざわざ留唏に声をかけに来たのか──パタパタと転校生の席へと向かっていく。
──律儀な黎らしいな。
後ろ姿を見ながら、留唏は苦笑いする。朝交した冗談を、約束と言わんばかりの対応だ。
──あれ?
先ほどはまったく気づかなかったが、黎は転校生の前の席だったようだ。黎の鞄が置いてある。
黎は楽しそうに黒髪の美人とにこにこ話す。そうして手を引いてきたストレート黒髪美人は、無表情でも留唏の胸を射貫いた。
「愛ちゃんです」
「マナ……」
『マナ』とは、『真名』──存在の名だ。『愛と美の神』の真名を、『憤りの神』は知っている。けれど、他の者がいるところでは、決して口外してはいけないものだ。
そんなことがなぜか頭に過っていたが、ふと、目の前のきれいな顔の眉間にしわが寄っていた。
「失礼な人ですね」
指摘され、呼び捨てにしてしまったと気づく。
すぐさま謝ろうとし──たが、頭の反応が鈍く言葉にならない。留唏が口を開けられずにいると、ふと黎が頭を下げた。
「ご、ごめんなさい! 悪気はきっとなくて……」
「ごめんね、黎ちゃんのお兄さんなのに」
身振り手振りを加えて話す黎を、愛は落ち着かせるように言った。
その様子は、どこか──ずっと昔から仲がいいふたりのようで。留唏は何かがずれているような感覚になる。
ただ、その感覚が、留唏を現実へと引き戻した。
──謝るのは、俺の方だ。
妹に頭を下げさせてしまった。言葉が出なかったと言い訳するのも、格好つかない。
「悪かった」
留唏はポツリと言い残し、踵を返す。
居づらくなり、ふたりに背を向け帰路を選んだが──印象の悪い態度をとってしまった。反省しかない。
十代後半──初めての一目惚れ。いや、誰かを好きと認識したのが初めてで。どうしたらいいかわからないだけだ──と解釈するが、すべてが言い訳だ。
恋愛であれ、対人関係には変わらない。だから、普通にコミュニケーションをとろうと努めればよかっただけだ。
そう徹すればよかっただけ──それだけだったのに、それだけが、できなかった。
留唏は自身の不甲斐なさに凹み、黎が帰宅後に改めて謝った。そうして、しばらく黎のクラスには行かないと伝える。
愛と会いたいと思いながらも、自らの発言通り、黎のクラスに近づかないよう努めて過ごした。ただ、黎はその後も転校生の話を何度もしてくる。
愛の話をする黎は、とても楽しそうで──ふたりが日に日に親しくなっている様子がうかがえた。
黎は出会ったころから留唏に何でも話してくる。だから、ただ単に仲のいい友達の話をしているだけだろう。留唏が愛に一目惚れをしたと思っていないほど、無邪気だ。
これまでなら、そんな黎の様子を微笑ましく思えたのに──黎の話を聞いて、愛の様子を浮かべて顔の筋肉がゆるんでしまう。
妹には申し訳ないが、気になっている相手の話は、話している黎以上に楽しく幸せな気分になった。
ただ、その副作用というべきか。日を追う毎に会いたい気持ちが増していく。愛と出会ってから数ヶ月が経っても、感情が膨らんでいくばかりだった。
恋愛とは、少々厄介な感情だと知る。もし、会ったとしても、うれしい気持ちになるのは一瞬だろう。愛に会いに行ったと気づかれたら、話したら──また印象を悪くするだけだと考え、怖くなる。
──自惚れだな……。
愛が転校してきてから数ヶ月だ。もしかしたら、覚えていないかもしれない。
いや、もし覚えていてくれたとしても、悪かった第一印象が多少和らいでいる可能性もある。
会いに行くか、やめるかと何度も繰り返し悩む。悩むが──心の奥では、結論が出ていると、己の感情が浮かび上がってくる。そうなれば、思考は都合のいい方向へと傾く。
あんな何ヶ月も前のことを覚えてはいない。気にしすぎた。それに、もし覚えていて何を言われても、妹に会いに来たと言えばいい。
──会いに行こう。
留唏は半ば開き直りで決意する。
実に情けないが、現状は言い訳ひとつないと踏ん切りが付かなかった。
そうして意を決し愛に会いに行ってみた──ものの、結果は散々だった。
終始空気のような振る舞いを徹底されたのだ。実に地獄のようなひとときだった。
黎が留唏に気を遣い、何度も話を振ってくれたが──愛の反応に耐えきれなくなって、口実を言い残しその場を去った。
二の舞いを踏んでしまった。
完全に嫌われた。
けれど、悲しい気持ちだけではないのが厄介だ。良くも悪くも、一回で覚えられていた。
理由は、友達の兄だからだろう。それだけだ。そう自らに言い聞かせるのに、そんな理由でも、留唏にとっては信じられないくらい、うれしくもあった。
愛の反応は、過剰反応とも言える。無関心よりはいい。いつか、好転のチャンスがあるかもしれない。
心がどうにか立ち直ろうとする。『好き』という感情は、不可思議なものだ。きっと、黎に同じような態度をとられていたら、留唏は傷を深めないための行動を選ぶ。『いつか』なんて、期待しない。
帰宅して自室にいると、しばらくしてノック音がした。
カチャリと開ければ、黎がいる。やさしい妹だと思うと同時、心配させてしまい申し訳なくも思う。
「頭が真っ白になっちまって……いや、こんなの言い訳だけど」
素直な気持ちをポツポツ話すと、黎は留唏の気持ちを察したように息を吸った。
「私から伝えてみましょうか?」
真剣な眼差しに、思わず首肯したくなる。だが、留唏は自力で立ち上がろうと踏ん張る。
「ありがと。でも、ちゃんと自分で言える日がくるように……頑張るよ」
黎が受け止めるかのように、コクンとうなずいた。頭をなでたい衝動に駆られたが、それはらしくないと口を開く。
「これからも会いに行くから、そのときまた懲りずに協力して」
『お願い』と、冗談めいて両手をパンと鳴らす。
顔を上げると、黎はクスクスと笑い、留唏の気持ちが少し和らいだ。
言葉通り、留唏は気持ちを新たに愛に会いに行くようになる。
相変わらずつれない対応を取られたが、会えるだけでもいいと思うようになっていった。
「冷てぇな」
とか、
「愛はクールビューティーなキャラだな」
とか、反応がなくても必ず一言二言だけ声をかける。それ以上、しつこくはしない。
もうすでに『失礼な人』だ。それならと、それを利用して呼び捨てを継続することにした。
基本的に黎に会いに来ているのが前提。黎と話しつつ、黎が愛と話せば無理に会話に入ろうとしない。その場に何となくいるだけでも留唏は構わないのだ。ふたりが楽しそうにしている様子を見るのは、ふしぎと心地がいい。
とはいえ、どうしても視線は愛にいきがちになる。
どうしてこんなに惹かれるのか──これまで誰かに冷たい態度をとられたことがなかったから、気になるだけか。
何度、自問自答してもわからない。
つれない態度を変わらず愛にとられ、更に数ヶ月が経つ。季節が変わり、愛にも少し変化がみられた。
恐らく留唏本人しか気づかない微妙な変化──だが、都合のいい解釈だと気持ちの高揚を抑える。
そんな日が何日も過ぎたある日、都合のいい解釈ではないと留唏が判断することが起きた。
ふと目が合い、愛の頬が──少し血色がよくなった。
愛の素振りが信じられず、留唏は思わず固まったが──これまで通りに振る舞う姿にドキドキが収まらず、留唏の挙動が不審になる。
そうして、思い知った。
どんな愛にも惹かれるのだと。