□愛すること
「また大神の命に背き、追うのですか?」
嫌な声を聞いたと『義憤の神』は振り向く。どこから見られていたのか。恐らく、見られたくなかった部分は一部始終見られている。
所詮、どこからと知ったところで何も変わらない。ならば、無意味な会話は必要ないと追求をやめる。
「見捨てるわけにはいかない」
「すでに姿を失い、魂さえも無に還ったというのに?」
真意を返され、『義憤の神』は口をつぐむ。大神の命に背くと見抜かれている──『義憤の神』は警戒心を抱く。
「貴男は元来のものを取り戻したのでしょう?」
左手の親指の付け根を見やる。確かに、青紫に輝く紋章がある。地上と天界を行き来する、『義憤の神』元来の力の証だ。ただ、『月と太陽の神』はわざわざ紋章を見たわけではないだろう。──それを言ったところで、サラリとかわすだろうが。
頭の切れる男だ。嫌になるほど、よく知っている。
『愛と美の神』と『義憤の神』はいわば共同体だった。どちらか片方だけが堕ちれば天界は均衡を崩す。
だが、『愛と美の神』だけが堕ち、天界は均衡を崩していない。つまり、『義憤の神』が元来の力を持っていると周知になる。
繋がりは、切れた。
『義憤の神』は紋章を見ていたが、何事もなかったかのように無言で『月と太陽の神』とすれ違う。
「どこに行くのです?」
『義憤の神』が追う者は、天界にも下界にも──どこにもない。向かう場所はないと、残酷な事実を『月と太陽の神』から告げられたのに、
「魂が再び巡るまで待つだけだ」
背を向けたまま『義憤の神』は返した。
しかし、『月と太陽の神』は怯まない。更に食い下がってくる。
「私の中には忒畝が深く刻まれ、今も生きています。だからこそ、理解はできます」
声が遠のいていかない。どうやら『月と太陽の神』は、『義憤の神』に付いてきているらしい。
『義憤の神』は速度を上げる。
「貴男の魂にも瑠既が深く刻まれ、彼が貴男を突き動かすのでしょうか?」
まったく声が遠ざからない。『義憤の神』が不快を感じていると、
「それは、後悔ですか?」
天界が、一瞬で電流を帯びた。
物理的なものではなく、精神的な感覚。──これは、大神のものだ。
『義憤の神』は足を止め振り返り、うんざりと問う。
「そうだとして、行くなと言うのか」
かつて大神が『義憤の神』を止めた。それは力ずくでも、何を持ってしてもという強い意志あるものだった。
あのとき『義憤の神』は、大神の命を聞こえていないかのように──いや、明確に大神の命に反したのだ。
大神は最大の神。原始の神だ。できぬことなどない。
『義憤の神』が大神の命に逆らったとき、すぐさま天界の均衡を保つには、捨てればよかったのだ。
大神が堕ちた者の神格を剥奪して、『義憤の神』と堕ちた者の繋がりを強制的に消せばよかったのだ。
『義憤の神』の『力』は、時の経過とともに戻ってきただろう。任務に支障があれば、大神が一時授けたかもしれない。
だから、大神は『義憤の神』を止めた。『義憤の神』は、その術を理解してでも──迷いが生じなかった。
それだけのこと。
「私には貴男を止めることなどできません。ただ、貴男にとって、下界は辛いだけの場所ではありませんか? 天界には下界のような苦行はありませんよ」
「貴殿の中の、忒畝に問う。お前は『下界を辛いだけの場所だった』と答えるか?」
対面した者は口を開こうとはしない。表情を固くし、否定も肯定もない。
記憶が残っているのなら、思い出したくない感情が蘇ったのかもしれない。ただ、それはお互い様だ。
更に『義憤の神』は続ける。
「確かに、忒畝は貴殿の魂の一部にすぎない。まったくの別人格だ。ただ俺は、高みの見物の貴殿より、よほど忒畝の方が尊敬できると思っていますよ」
消滅さえ恐れぬ暴言。
大神の次点である存在に、人間の方が尊敬できると告げたのだ。
だが、言われた者は愉快そうに微笑んだ。
「では、昔話でもしませんか。終わるころには、彼女が私のもとへ戻ってくるかもしれない」
優雅な音楽に聞き入っているかのような、上品な微笑みを浮かべている。
「不快かもしれませんが、彼女は私の妻です。彼女が戻ってきたら、私も女神の回収へと向かうつもりでした」
『もちろん。大神からの許可はいただく予定でしたよ?』とまで、涼しい笑顔を浮かべて言う。
これだから、いけ好かない。
「大昔の話に花を咲かせて、どうするおつもりで?」
『義憤の神』の警戒は、戦い多きゆえではない。神としての勘だ。──大神は、じっくりとこの会話を愉しんでいる。
「ヒントがあるかもしれませんよ? 貴男の愛おしい妻、『愛と美の神』が再生される場所のヒントが」
『月と太陽の神』がスッと手を差し出す。救いの手かのように開かれる右の掌に、『義憤の神』は疑いの視線を注ぐ。
「何をそんなに怯えるのです? 私も貴男に、忒畝の苦痛も苦悩も打ち明けます。私が大神の命で、『愛と美の神』の回収に参加しなかったことで、貴男は何をそんなに後悔しているのですか?」
グッと『月と太陽の神』を見据える。
怯えるとは、『義憤の神』が示されることはあっても、自らに使われるのは新鮮なたとえだ。
更に『月と太陽の神』は続けた。
「実にふしぎなのです。君主だった忒畝の死後、何が起こったのか。それに、女神が魂の消失を選択するほどの業を、なぜ積んでしまったのか」




