▶救済
ジトジトしていて、気持ち悪いと初めて思った。
「初めてじゃないでしょ?」
「え?」
愛情の欠片もない言葉に、寒気を覚えた。
「あ、噂はやっぱり噂なんだ?」
「噂って?」
相手から好きという感情が感じられないのは、好きという感情が相手に対してないからか。
「いい?」
「うん」
肯定したけれど、心の準備はまったくできていない。
──これは一体、何なんだろう。
「あ……」
トプン、トプン……と溺れていく。
溺れて沈んで、頭まですっぽり水中へと入っていた。
──いつの間に……。
足が地につかない。動かしても、重みがあるだけだ。手を動かしても同様。頭が水から出ず、息を吸えない。目を開いているかもわからなくなる。苦しみに悶えそうになった、そのとき。
『俺を信じて』
どこからか、声が聞こえた。
──この声は、沙稀だ。
以前、こんなことがあった気がする。
──ああ、あの人から、たくさんの愛をもらった。
タプン、タプンとたゆる。
苦しくない。ふしぎに思っていたら、スウッと水は引いていて、視界が広がった。薄暗いが、見慣れた部屋の天井が見える。──恭良はベッドの上に横たわっていた。
ぼんやりとした視界をゆっくりと移動する。覆い被さるように揺れる人物は、欲している者ではない。
それなのに、すべてを委ねている。
顔を覆いたくなる。
嘆きたくなる。
欲する人は、ただひとり。
思い浮かべれば物悲しい。
でも、己で決めたこと。後悔はしていない。
──私は今度こそ、あの人を幸せに……することが、できたのかしら。
思考と現実が噛み合わないまま、呆然とその場をやり過ごして──それ以降のことは、あまり覚えていない。
色んなことがあった気がする。
二度と会わないと決めていたのに、一度だけ会った気がした。
──あれは……何のときだったかしら。
一目見たら、神々しくて。目を逸らせなくて。瞳が合って。
──そうだった。
すごく悲しそうな顔をした。
会ったのは、あれが最後だった。
いつの間にか、真っ白な空間に迷い込んでいた。
ポツポツと歩いている。ただただ、歩いている。
行き先なんて、どのみちない。
存在している限りさまようだけだ。
無心で歩く。ひたすらに。
目的地は知らない。歩いて、歩いて、歩く。その繰り返し。
どこまで歩いても全方位が真っ白の中、キラキラと輝きが見えた。
「え……嘘……」
ペタペタと歩いていた足が止まる。
「私、『要らない』って、ちゃんと……」
ドキドキと気持ちが高ぶる。
じんわり涙が浮かぶ。
輝きの中には、恋い焦がれるように憧れた存在がある。
フワッと煌めきが舞い、美しい瞳に囚われた。
「言ったでしょう? 独りにしないって」
フルフルと震えそうな手を握る。
ゆったりと近づく距離に、瞳が揺れる。
絞り出すように言葉を紡ぐ。
「待っていて、くれたの?」
きちんと言えたかわからない。ふんわりとした笑みが降ってきて、恭良は光に包まれた。
「一緒に……ひとつになろう」
聞こえる声は、浄化。
差し出される手は、癒やし。
この光景は、初めて出会ったときのような──それでいて、心情はまったく違う。ほしい、ほしいと飢えていたときとは、まったく。
『やっと、ひとつになれるのね。私たち』
過去にそう言ったときとも、まったく。
触れた手からは、ふしぎとぬくもりが伝わる。じんわりとしみ込んでいき、包まれているような、抱き締められているような感覚へと変わっていく。
目を開けているのかわからなくなるほど、まばゆく見えない。けれど、不安はなく、ただただ心地いい。
何と心の満たされることか。
この愛は、まさに『救済』だ。
──この人の愛は……こんなにも深く、あたたかかった……。
ホロホロと涙がこぼれていく。
姿形が見えなくても、わかる。確かにこれまで何度ももらっていた愛だ。隅々まで満たされる。愛がしみ込んで、溶けて、広がっていく。
ほうっと恍惚に浸った。
──こんな幸福は、この人にしかできない……。
ぼうっとしたまま目を開く。
しかし目の前には、いたはずの存在がない。
無意識に両手を胸へと置く。
トクントクンと波打つような感覚に、命を認識する。
──ああ、あの人とひとつになったんだ……。
ずっとずっと夢だった。願いだった。
胸がいっぱいだ。
これで、永久にともにいられる。
けれど──。
命を感じて、奇妙な感覚に囚われた。
ここを恭良は知っている。──隔離された魂だけの世界。現世と離れた世界、常世だ。
生きているはずはない。
両手を見ながら、開いたり閉じたりする。
どうにもおかしい。
まるでこれは、生きている感覚だ。
「お前、沙稀に何をした?」
ふと、声がした。
視界を動かせば、見知った存在がある。そうだ、この男は──『義憤の神』だ。
昔々から──それこそ、憧れの存在と初めて出会ったときから、この神に──会っていた気がする。
そうでなければ、『義憤の神』だなんて、見ただけでわかるわけがない。
ずっと、この男が苦手だった。──今なら、明確に理由がわかる。この中の魂と、ずっと引き離そうとしていたからだ。
ずっとずっと恐れる存在だった。相手は『義憤の神』。対立して敵うわけがない。だから、せめて精一杯強がり続けてきた。
──でも、もう何も恐れなくていい。だって……。
「ひとつになったのよ、私たち」




