40▶琴瑟相和 6:この笑顔があれば
幸せな日々だったと誄は振り返る。
誰かが帰る場所になって、待ってくれる人がいて、お互いの顔を見ればホッとして──何と素晴らしい毎日だったか。
誰かのために生きていると、こんなに実感した日々はなかった。
感謝で胸がいっぱいだ。
すごくすごく悲しいが、きっと誰にも見せたことのない表情をたくさん見られた。
来世でも友達になろうと約束した。
絶対に会えると信じている。だから、寂しくはない。
眠るように沙稀が息を引き取って、瑠既がすぐに来ると思っていた。
けれど、顔を出したのは義父だけだった。
話を聞けば、瑠既の意識は今ないらしい。
混乱する頭で、誄は必死に話を聞く。
瑠既は突然倒れたそうだ。幸い近くには妻子がいて、すぐに病院に運ばれた。
意識は戻らず昏睡に陥り、家族は瑠既に付き添っていたところだという。
更に話を聞けば、瑠既が昏睡状態になったのは、沙稀が息を引き取った時刻とほぼ同じだった。
「どこまでも……仲がいいんですね……」
沙稀が瑠既を呼ぶのではなく、瑠既が沙稀を追いかけているのだろう。昔から、そういう双子だ。
きっと、恭良は駆け付けたかっただろう。しかし、結婚式の最中に帰った兄だ。夫がそばにいれば、来られないのかもしれない。
義母は混乱しつつも、まだ生きている息子に付き添うことを選んだ。
義父だけが、皆が付き添うならと来られたのだろう。──そんな風に、誄は勝手な想像をした。
「来てくださって、ありがとうございます」
「誄ちゃんこそ。ありがとう」
義父はていねいに一礼すると、
「沙稀は、私が来るなんて嫌だっただろうけど」
と、悲しそうにポツリと言った。
「そうでしょうか」
誄はやんわりと否定する。
「沙稀様は、お義父様のことも……ご家族の皆様を、大好きだったと思います」
気丈にしていた義父の瞳に涙が浮かぶ。
誄は地雷を踏んでしまった気がして、
「や、やさしい人ですからね。沙稀様は」
と言葉で埋めようとしたが、動揺してしまったのは明らかで。ただ、そのお陰か、義父は苦笑いをして涙をとどめた。
義父は荷物の整理を一緒にすると申し出てくれ、誄はようやく引き上げる準備に取りかかる。
数週間、ここで沙稀が生活をしていた。だから名残惜しくて、片付けをしなくてはと思えなかった。
義父の申し出は、誄にとってはありがたかった。雑多な手続きも手伝ってくれ、ひとりではできなかっただろうと頭が上がらない。
気づくと、日がとっぷりと暮れていた。
「また、いつでも連絡を」
「ありがとうございます」
誄は深々と頭を下げる。すると、義父に『こちらこそ、ありがとう』と深く頭を下げられた。
──沙稀様の所作は、お義父様似なのかしら。
面影を感じ、ほんわりとして義父を見送る。
一年ほど職場を休んだ。休職のとき、気遣ってくれた忒畝にはとても感謝している。
お陰で復職するのに気後れはなく、早く復帰しなくてはと思えた。
久しぶりに顔を出した職場には、ちいさな女の子と忒畝、年の近そうな女性がいた。
忒畝の表情が以前よりもやわらかい気がする。
──お子様と……奥様かしら。
家族団らん──職場であるのに、家にお邪魔したような朗らかさがある。つい、ほうっと見とれて、憧れてしまう家族像。ここは、別世界のようだ。
「戻ってきてくれてありがとう」
誄が声をかけられずにいると、ふと振り向いた忒畝が明るい声で迎えてくれた。
「妻の馨民と娘の岷音。こちら、僕がまたすごくお世話になる誄さん」
約束通りの紹介をされ、
「私の方こそ、またすごくお世話になります。よろしくお願いします」
と頭を下げる。
「色々大変だと思うけど、何でも言ってね」
忒畝の妻、馨民がかわいらしく微笑む。あまりにかわいらしい笑みに、誄は心つかまれる。一目で心惹かれた誄は、忒畝も惹かれるわけだと納得した。
ハッと我に返り、誄は深々と一礼する。
「あ、ありがとうございます!」
いい家族であり、お似合いの夫婦だ。この場にいるだけで幸せになれる。
「そうだ! 近々、充忠も呼んで復帰祝いをしましょうよ」
「いいね。そういえば充忠も結婚するんだっけ?」
「『俺が養うんだよ!』って反論しているらしいわ」
「そういえば望緑さんの口癖は『早く充忠くんを養えるようになるから』だったね」
楽しそうに笑うふたりにつられて誄も笑う。
別の薬の開発にあっている充忠は同室ではないが、度々顔を出すので誄も知っている。充忠には九歳年上の彼女がいて、確かに以前からそんな会話をしていた。
──これからもっとみんなが幸せになっていく……。
幸せは伝染するという。大きな悲しみがあった誄だが、残った幸せもある。
誄は思いきって口を開く。
「あの……私……」
言えなかった休職の一番の理由を告げる。そうしてひとつ、お願い事も──。
ワッと笑顔が咲いた。
誄には忒畝たちの反応は驚くものだったが、快く受け入れてくれる環境に感謝する。
道標を見つけられないときもあったけれど、今は澄んだ青空を仰いでいるような気分だ。
充実した日々を誄は過ごした。あれから五年。早いものだと誄は振り返る。
毎朝仕事に行く前に、沙稀の遺影を前に心の中で話しかけることが日課になった。大きな影響は、ひとりではなかったからかもしれない。
「お母さ~ん」
ハッと意識を戻したかのように、誄はまぶたを開ける。
「あら、もう行く時間かしら?」
「まだだけど……今日のお祈りがいつもより長い気がしたから」
ふふふと笑い、誄は手招きする。
「一緒にお父さんに、『行ってきます』って言いましょう」
近寄ってくる子は、誄と同じ色彩を持っている。幼いときの沙稀にも、瑠既にもどことなく似ている。
誄は休職した際、親族の誰にも言わず息子を産んだ。
沙稀には妊娠していると言わなかった。言っていたら、会いたいとも、名付けてくれたかとも、もっと長生きしたかとも──色んなことを考える。
嫌がりも、反対もしなかっただろう。でも、誄は心のどこかで恐れ、言えなかった。
沙稀が気づいていたかは、わからない。
でも、最期までとにかくやさしかった。
「行ってきます」
ふたりで告げ、手をしっかり繋いで職場へと向かう。
あのあと、瑠既の意識は何ヶ月も戻らなかった。
不幸は続き、恭良が不慮の事故に遭い、この世を去った。
数時間後、瑠既の呼吸が停止した。
無事に息子が産まれてくれたのは、沙稀が守ってくれたのだと誄は信じている。
息子も五歳になった。
克主病院付属学校に入るのなら、決断をする年だ。ただ、それを誄は催促するように聞くことはしない。
「また充忠くんとこの子と遊びたい」
「こら、充忠『さん』でしょう?」
「えええええ? 充忠くんは友達だから『くん』!」
もう、と誄は笑う。
このくらい、ずっと自由でいてほしい。
復職したあと、誄は息子を職場に連れてきたいと無理を承知でお願いした。
忒畝も馨民も手放しで歓迎してくれ──忒畝も馨民もその娘も、充忠も、皆が子育てを協力してくれた。
それはこの五年間、ずっと続いている。もう職場の皆が家族のような存在だ。
だが、皆を『友達』と息子は言い、多少大人びた性格になってしまった。こればかりは躾が足らなかったと誄は反省する。一方で、しっかりしていると思えば心強くもあるのだが。
キュッと繋ぐ手に感謝する。
この手も、いつかは離れていく。突然、失うこともあるかもしれない。
けれど、今は『永遠』なのだ。
おだやかで平凡で何もなくて、そんな『永遠』が誄はとてつもなく愛おしい。
誰かが拒絶した。
厳しい厳しい言動で。
誰かが否認した。
存在自体を。
誄の心の奥深くで何かが強く芽生えたときは、そんなときだったような気がする。
一方的に決めつけたくない。
歩み寄りたい。
歩み寄れるかもしれない。
何かがあったのかもしれない。
誰かを救うなんて、大それた表現だけれど。
誰かを救うなんて、できないかもしれないけれど。
誰かに救われることが、あるのだから。
誄は諦めたくないと強く強く願ったのだ。
それが、いつだったかは、誄本人は知らないけれど。
職場に入る前、誄は息子と必ず同じ約束をする。
「今日もみんなで仲良く過ごそうね」
「うん!」
この笑顔があれば、愛がたくさん生まれる気がした。




