38▶琴瑟相和 4:経験
沙稀と一緒に住むようになって、何年が経ったころか。
誄は耳を疑った。
目の前には淡々と、まるで他人事かのように冷静に話す沙稀がいる。
健康診断の検査で引っかかり、再検査を受け、精密検査を受けた。あれよあれよと自体は悪い方へと転がって、余命宣告されたという。
それも、長くて数ヶ月。
沙稀自身に痛みや苦しみなどの不調はなく、宣告を受けても自覚はないらしい。ただ、事実としては、受け止めているようだ。
「だからさ、迷惑かけちゃうと思うから。この機会に出ていくから」
「ご家族には……話したのですか?」
静かに沙稀は首を横に振る。
「今更言えないよ」
「それでしたら! このままここに……いてください」
「でも」
「その代わり、沙稀様が元気なうちに……お願いしたいことがあります」
自ら言い出したことなのに、とてつもなく言いにくい。じわりと汗が噴き出してくる。
「そのっ……」
恐らく、顔面だって真っ赤だ。
『まさか』と沙稀が察しているかもしれないと思えば、顔が見られない。ギュッと目をつぶり、必死に恥ずかしさをこらえて言葉にする。
「私、経験がないんです。たぶん、この先もそんな機会は巡ってきません。でも、一生知らないままは、嫌なんです……」
何てことを言っているのかと、自身を疑いたくもなる。だが、恋愛経験もなければ、結婚する未来も見えない。幼なじみに恋をしたのが運の尽きというより、そもそも瑠既と沙稀が幼なじみなら、それ以上の男性となかなか出会えなくて当然と思ってしまう。
不幸というより、贅沢すぎたと誄は痛感するだけだ。
沙稀はギョッとしているだろうと、おそるおそる顔を上げてみれば──困惑しているように見えた。
引かれていないと安心したが、どうして困惑しているのかと誄は疑問に思う。てっきり懸命に断られると思っていたのに、断る言葉を探しているような──これはこれで、誄にとっては都合がいい展開かもしれない。
そもそも誄は、沙稀のやさしさに付け込もうとした節がある。だから、もう一押しも二押しもすれば──口にしたことが叶う気がした。
「あの、もし授かったとしても沙稀様に責任は求めないですし……。私、子どもはほしかったので、むしろうれしいというか……だから、もし、もしそうなってもご迷惑はかけないので……」
誄がワタワタと言えば、沙稀が苦笑いする。
「それはそれで……悲しいものがあるんだけど……」
「え?」
「いや、俺は結局……傷付けたことしか、ないからさ……」
ポソポソと言う沙稀に、誄はハッとする。
──そうだった。恭良様のことを、沙稀様は勘違いしている……。
だからといって、誄が言うわけにはいかない。それに、今になって沙稀に告げても残酷なだけだ。
誄は一度キュッと口を結び、事実を心に封じてから再び口を開く。
「過去のことは私、わかりませんけど……でも、今は、私から誘っているんですよ?」
じとっと見つめれば、沙稀は見たことのないようなかわいらしい表情をした。
そんなたじろぐような表情に、誄の意地悪心が動く。
「私じゃ……駄目ですか?」
ほんのりと沙稀の顔色に赤みが増した気がした。
誄は前のめりになり、より近くで見つめる。
強ばったような体──けれど、避ける素振りがない。更に顔を至近距離にしても同様で。
誄は、それを同意とみなした。
気づけば、いつから立場が逆転していたのか。誄はやさしいぬくもりに包まれていた。
欲深くなる。
もっとと求めれば、求める分だけ与えてくれる。高揚感が癒やしに変わっていき、心が隅々まで満たされていく。
沈んでいくような、フワッと軽くなるような──どちらも漂うような、未知の感覚だ。
これで『傷付けたことしかない』とはよく言う。
こんなにもおだやかでやさしい愛を奏でながら、その想いが身に刻まれていくなら、どんなに幸福だっただろうと想像してしまう。
羨ましいとは思わない。
見つめれば、返ってくる瞳は正真正銘、誄を見つめているから。
シャワーを浴びて余韻に浸っていた誄がきちんと衣服を身に着けたころ、入れ違いに沙稀がシャワーを浴びに行った。
見送る背にフワフワとして、恋人になったような気分になる。ウキウキと高揚して、うっとりとしていたら、あっという間に沙稀が脱衣所に出てきたと気づく。
沙稀を出迎えようと立ち上がり、キッチンへ小走りで向かう。
紅茶を入れていると、ちょうど沙稀が姿を現した。照れながら『どうですか?』と聞けば、『ありがとう』と返ってくる。いつもと変わらないはずの声なのに、誄はドキドキとして妙に照れた。
ふたりでほのぼのとティータイムを過ごしていたが、ふと──沙稀が困惑していた理由が浮かんでしまった。
沙稀はやはり今でも恭良を一途に思っているのだ。
ただ、別にそれはいい。ずっと変わらないとは思っていた。
けれど、だからこそ『最後の人』にしたかったのだ。
それを誄に言えず、呑み込み、誄を受け入れたのだ。
何て酷なことをしてしまったのかと、胸がズキズキと痛む。
沙稀に言ったことは本当だ。もし、子どもを授かったとしても、責任を押し付ける気はない。
なのに、勝手に盛り上がって、一方的に『彼』という憧れの存在を一時でも押し付けた。
「ごちそうさま」
ドキリとして我に戻れば、沙稀は席を立っていた。
沙稀のことだ。素直に紅茶の礼だろう。荒んでいるのは、誄の心だ。
付け込んだのだ。
やさしさに。
未来の区切りを言い渡されたことに。
苦労をかけるという負い目に。
沙稀は責めないだろう。今だって、責めないのだから。
誄は立った背を追う。
「私、沙稀様のお母様に伝えてきます」
「いいよ」
「会えるかもしれないですよ?」
「会わないよ」
『誰に』とは言わないのに、
「会わない」
と、沙稀は繰り返し断定した。その口調はきっぱりとしていて。想いは定まっているのに、揺らがないと伝わってくる。
「誄ちゃんがいてくれるんでしょう? 甘えることにする」
愛情とは違う。
でも、同情でもない。
だから、誄は素直な気持ちをぶつけた。
「はい。たくさん甘えてください」
ふふふと笑う。どちらともなく。
それはまさしく『親友』だった。
余命が長くて数ヶ月と聞いたものの、誄には実感がわかなかった。ただ、誄が受け止めなくてはいけない日は、意外に早くやってくる。
聞いてから、二週間ほど経ったころだ。突然、沙稀が立ち上がれなくなった。誄は急いで病院へと連れていく。
そうして、緊急入院が宣告された。
「ご家族へ連絡を」
医師に言われ、誄は言葉に詰まる。
「あの、家族は……私は一緒に住んでいる者ですが……」
誄の言い方に、家族はいないと医師は勘違いしてくれたのだろう。瞳に少し悲しみを混在させ、医師は諭すように言う。
「そうですか。数日間は同居の方でも会えるかもしれないですが……容態次第では、いつ会えなくなってしまってもおかしくないですよ」
要はこれから沙稀の容態は、悪化していく見通しということ。誄はギュッと両手を握り締める。
「家族なら、最期まで会えますか?」




