37▶琴瑟相和 3:相反する気持ち
卒業をしたらどうするか。当時の誄にとっては、漠然と思うだけで立っていられなくなるくらい不安なことだった。
だからこそ、忒畝の言葉は救いのようで、
「はい!」
と、迷わずに答えられた。
向かう方向が決まると、スッと不安が嘘のように消える。もたらされた安堵で道が定まり、誄は一心に向かっていった。
志ができ、明るい未来を感じていた。
けれど、ふたを開けてみれば。忒畝のそばにいたかっただけだと痛感する日々だった。
これでは、瑠既が忒畝に変わっただけだ。
──いけない。
忒畝には妻子がいると釘を刺されている。忒畝との未来を望むのは、絶壁に向かい身を投げるようなもの。
誄自身がわかっているはずなのに、それでも新たな道を自ら見いだせず、とどまっている。
思い返せば、忒畝はすでに研究者の道が約束されていたのだろう。誄以外にも、優秀な人材に声をかけていたのかもしれない。誄でなくても、きっとよかったのだ。
落胆したいからこそ、個人的な興味や関心ではなかったと結論付けようとするのに、忒畝の嫌な部分として結び付かないから困る。
「敬語をやめてくれて構わないのに」
ポソリと聞こえた声で我に返る。忒畝は『僕の方が年下なんだから』とまで付け加えた。
だが、誄は年齢を言われても、忒畝の考えには及ばない。
「いいえ、助手ですから」
と返し、『この方が私のためです』と自戒する。
一方の忒畝は『そうなの?』と、わけがわからないという顔をした。この無頓着なところでさえ魅力と感じるのだから、重傷だと誄は自覚する。
決して忒畝には言えないが、もし、敬語を崩したら。この距離感を壊したくなるだろう。
一線を、越えたいとこれまでよりも願うだろう。
だから、これでいいと誄は自らに言い聞かせるように返答した。忒畝には、理解できなくて構わない。
そばにいて、補助できるこの距離感と関係性に誄は満足しているのだ。忒畝を一時でも独占できて──そう、こうして近くで見つめられて。
満足している──のに。
幸せ──なのに。
どうしてか時折、欲が顔を出そうとしてしまう。
「ああ、ごめん。そろそろお昼だったかな?」
あまりにも見つめていたからか、忒畝が研究対象から意識を離してしまった。
「そ、そうですね」
「やっぱり、僕には助手が必要だな」
にこりと無邪気な笑顔が見られるこの距離を、離したくない。
無性にうれしくなる瞬間が、こうやって巡ってくる。──いや、これは都合のいい受け取り方だ。
忒畝が必要だと言ったのは助手であって、『誄』ではない。根幹は揺るぎない。
こういった露骨な言い方をすれば、忒畝は否定するだろう。
しかし、誄にとってはそういうことだ。
誄は自前の弁当を取り出すが、忒畝の持つ弁当は愛妻弁当だ。愛妻と言っても、忒畝は書面上ではまだ未婚だが。
「奥様、そろそろ復学されるのですよね?」
忒畝は十七歳。婚姻が認められるには、まだ一年足りない。
「そうだね。数年間も僕と娘のために、彼女は個のやりたいことを犠牲にしてきてくれた。……僕の我が儘ばかりに、付き合ってもらうわけにはいかないからね」
少し寂しげな笑み──に誄には見えたが、同時に羨む気持ちが沸く。
忒畝の想いは、果たして本当に忒畝の我が儘なのだろうか、とも。
どちらにしても、忒畝に我が儘を言ってもらえるなんてと、嫉妬する。
──そんな風に、誰かに想われてみたい。
忒畝には事実上の妻がいて、娘もいて、誄は恋愛対象にはなれない。
万が一恋愛になったところで、略奪できる相手ではないと想定している。欲しても手の届かない存在だ。
望みがない分、望まないで済む。
いくら想い続けても、自己責任だけで終れる。
瑠既のときとの差はそこで、そういう意味では忒畝を想い続けても悪くないと思えてくる。
「すてきな人なんでしょうね」
つい口にした社交辞令なのに、忒畝はうれしそうに笑っている。
「僕以上に、優秀な人だよ」
あれだけ校内で噂になった人物に、こうまで言わせる。勝ち目なんて微塵もないと、挑む気にもなれない。
「楽しみですね」
「彼女が復学して卒業したら、薬学が変わる。僕はそう確信しているんだ」
根っからの研究者からしか、出てこないだろう発言。
恋愛には無関心そうなこの人を夢中にさせる人は、どんな人なのか──そう思い、純粋な興味が沸いた。
「お会いしてみたいです」
「すごくお世話になっている人だと紹介するよ」
「ありがとうございます」
忒畝とは明確な一線がある方が程好いと、誄は改めて律する。
いつか、この想いが尊敬に変わればいいと願いを込めて。
ただ、そんな日はこないだろう──と、沙稀を見ていると思ってしまう。口にするわけではないが、一途に想い続けていると感じられて。
帰宅して出迎えられて、食事を出してもらって──職場では沙稀の存在を『彼氏』と忒畝の気を引きたくて言ったのに、忒畝には祝われた。
それでも、忒畝に気がないふりをするには都合がいいと、多少抱えた不満を呑み込んだのに──沙稀と一緒にいると、誄が『彼氏』と意識してしまっている。
さりげない気遣いにドキリとして、油断を見せても照れるでもなく振る舞われる。まったく異性として認識されないと自覚すれば、沙稀が異性と見るのは誰かと浮かんでしまう。
この先、何年一緒に住んだところで、沙稀にとって誄は家族のような空気感なのだ。それが誄には心地がよく、心地よくない。
相反する気持ちが共有している。
心が揺らぐ。
すぐに移り気をすると、つくづく己にうんざりしてしまう。
でも、誰かに愛されてみたいのだ。
うっとりと浸ってみたいのだ。
恋に憧れていると言えば、聞こえはいいだろう。そんな美しいものではないと承知の上だ。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
明日の朝になれば、また『おはよう』とあいさつを交わすのだろう。
一日の終わりに言葉を交わし合える相手がいるだけで贅沢なのに、朝も迎えられる。
──これだけで、充分じゃないの。
背筋を伸ばす。望みすぎだと。
部屋の扉を閉め、鍵はかけずにいる。沙稀は、これを信頼と取るだろう。
チクリと胸が痛む。
けれど──。
沙稀と瑠既が並べば、未だに瑠既に目が向くと安易に想像が付く。
誰が好きなのか、自問自答はしない。明確になったところで、前進できないから。
都合がいいと自身を俯瞰する。結局、心地よさを求めていて、与えてくれそうな人に惹かれているだけだ。
──こんな自分が、誰かに愛されるわけない……。
もぐったベッドのやわらかさとあたたかさに癒やされつつ、誄は眠りに落ちる。




