36▶琴瑟相和 2:唯一無二
「本当によかったの? 俺と一緒に暮らし始めて」
朝のあいさつを互いに交わしたあと、沙稀がポツリと言った。
沙稀はあれからすべてを捨て、誄の家へと来ていた。一晩明け、誄が起きると沙稀はすでにキッチンに立っていたのだ。
何て贅沢だろうと誄はホレボレし、吸い込まれるように対面に立つ。
「沙稀様こそ、よかったんですか?」
誄はのぞき込んで言い、クスリと笑う。
「俺は構わないよ。この先だってずっと独り身だから」
「ふふふ……私もです」
楽しそうに笑う誄とは対照的に、沙稀の表情は変わらない。
「気になっている人ができたと思っていたのに」
「気になっている人のままですよ。だってその人、既婚者ですもの」
誄は変わらずふんわりと言ったのに、場の空気が固まる。けれど、誄は気づかないふりをして、また『ふふふ』とおもしろおかしそうに笑った。
「世の中たくさんの恋人たちがいるのに、両想いって奇跡なんだな~と思います」
「そうだね」
──沙稀様もなんですけどね。
口には出せない言葉を心に留め、誄はやんわりと笑む。
「沙稀様、私をもらってくださいません?」
「自分を大事にしてよ」
「あら、沙稀様ほど私を大切にしてくださる方は、他にいないと思ったんですけど」
真顔で返せば、沙稀は苦笑いだ。
「そんな風に言ってくれるのは、誄ちゃんだけだ」
冗談と流した沙稀は、手際よく朝食をテーブルに並べる。
「ご飯の用意、ありがとうございます」
「今日から無職だからね。このくらいは」
そうは言っても、沙稀が相当貯金をしていたのは知っている。恭良との新生活に備えていたものだ。恭良と別れてからも散財せず、抜け殻のようにまるでお金を使わなくなった時期もある。
沙稀が自身の身なりを整えるのに使う出費も、恭良がいたからこそだったのだろう。
外見よし、性格よし、その上料理までできて散財もしないとあれば。沙稀を選ぶのは、誄にとってはまったく妥協ではない。むしろ、もったいないくらいだと思っている。
──周囲の女の子たちは、放っておかなかっただろうなぁ。
どれほどの子たちを泣かせてきたのか。そう思ってみても、その誰ひとりにも、昨日の号泣していた姿は見せたくないと思ってしまう。
この妙な独占欲は幼なじみという特別枠ゆえか、はたまた『妹』枠に収まってしまったゆえか。どちらにしても、恭良以外の女子には嫉妬してしまう。
「あの……私が異性と暮らしていると知るだけでも、ずい分安心してくれると思います」
『誰が』と言わずとも、
「ああ、なるほど」
と、沙稀が応える。どうやら的確に伝わったらしい。
カモフラージュだとごまかしても、沙稀はまったく不快な態度は示さなかった。かえって、気が楽だと言われたような気がする。
──もし、私が沙稀様を好きだったら、モヤッとするのかしら?
以前、無自覚で気移りしていただけに、己と向き合う。自問自答をし確認するが、まったくモヤモヤした気持ちはない。
やはり、沙稀に対する感情は恋愛とは別の、特別な感情らしい。
誄が沙稀への気持ちを整理していると、沙稀が席に着く。そうして、誄に着席を求め、食べ始めに釘を刺された。
「でも結婚は別。それはやっぱり……好きな相手としてほしいな」
──自分は一生しないと宣言しているみたい。
スッパリ線を引かれたようでおもしろくない。それに、一ミリも女性と見られていないと伝わってきたのも、おもしろくない。
「だから、誄ちゃんの好きな相手が未婚のときは、俺すぐに出ていくからね」
こんなことを、やんわりとした口調で沙稀は言う。
──ああ、沙稀様が『女性』と見るのは、唯一無二なんだなぁ……。
どれだけ傷付いても、想い人は変わらない。恐らく永遠に。
それは忒畝にも通ずるもので、誄の心はズキリと痛む。
「そういう人が、現れてくれるといいのですけど……」
「現れるよ、きっと」
どの口が言うのかと思いながらも、沙稀は単に励ましてくれているだけだと思い直す。
近頃、心が歪んでしまって仕方ない。──ただ、沙稀の無垢な笑顔を見ると、心が浄化される気がする。
──今日も一日頑張ろう。
この思いも恋ではないのかと自問自答をして、誄は職場へ行く準備を始める。
心おだやかに職場に着き、仕事を開始する。
今日は特別な日だった気がする。瑠既と出会うのが気まずくて、誄は卒業と同時に実家を出て一人暮らしを始めた。何年もひとりの日々だったせいか、沙稀が家にいてくれるだけで心がずい分潤った気がする。
いつもよりも気分よく、手早く準備が進められ、それもまた気持ちがいい。うっかり鼻歌まで歌いそうになる。
足音が聞こえ、誄はうっかりしなくてよかったと心底思った。忒畝が来たのだ。
「準備ありがとう」
何気ない一言なのに、とてつもなくうれしい。今日は、何ていい日なのか。
「他に必要な物はありませんか?」
「きちんと整っているよ。ありがとう」
『いつも助かるよ』と、続いた何気ない一言が、胸をつかむ。こういう一言があるから、心が忒畝から離れられない。
ああ、何て移り気の多い女なんだろう──己で思ってしまうのだから、どうしようもない。
負の感情を奥底に押し込めて、誄は懸命に微笑む。
「よかったです」
こういう形でもそばにいられて──とは、口が裂けても言えない。
誄は進路を決められないまま学生生活の最後の年を迎えた。それを気づいたときには、これまで目標がなかったと青ざめる。当時の誄は、学ぶことしか己には残ってないと絶望したものだ。
だが、発想の転換で。誄は学業に全力を注いだ。
結果、メキメキと順位が上がり、幸か不幸か忒畝の目に留まって声をかけられた。
「卒業したら、薬学部にきませんか」




