35▶弟 8:大切な
突然のことだった。
卒業してから数年後、羅凍は沙稀と連絡が取れなくなった。
そうなってから、あのとき『彼女』と会ってはいけなかったんだと、悔いた。
在学中は、沙稀が誰を好きなのかわからなかった。
凪裟が沙稀に好意を持っている様子だったから、ふたりが付き合えばいいと思ったときもあった。
けれど、それは叶わず。
卒業後しばらくして、凪裟と兄が付き合っていると知る。きっと、兄は以前から凪裟が好きだったんだろう。沙稀が卒業してから、凪裟が振られたと言っていたから、タイミングが噛み合ったのかもしれない。
『彼女』を知ったのは偶然だった。
卒業してから半年くらい経ったころ、哀萩と珍しく遠くへ出かけた。そこでたまたま沙稀を見かけ、声をかけた。
「沙稀!」
すると、沙稀は驚くように振り返った。
羅凍はこんな偶然があるのかと、喜びのまま駆け寄る。けれど、羅凍の速度はゆるんだ。沙稀の表情が顕著に苦笑いへと変わっていったから。
沙稀の周囲を見てみれば、女子がいる。
「彼女?」
沙稀と身長に差があるものの、清楚な印象だった。だから羅凍はふたりの年齢差より、単に背の低い子と認識する。
とはいえ、その身長差は羅凍と哀萩の差と同じくらいだ。
沙稀は照れているのか、視線を泳がせながら肯定した。
羅凍は『沙稀の友人』と自己紹介し、追いついてきた哀萩を『俺の彼女』と紹介する。
清楚な印象の女子は、丸い目をつぶして微笑んだ。
「初めまして」
可憐で、どこか切ない。
沙稀がぎこちなかったのが、どうしてかわかった気がした。
──隠しておきたかったのかな。
彼女を。
それだけ大切に思っているのだろう。沙稀は恋愛が苦手そうだと感じていたから、納得できなくもない。
もしかしたら沙稀は、何年も片想いをしていたのかもしれない。きっと、羅凍に会わせたくなかったのだ。いや、恐らく誰にも会わせたくないくらい大事なのだろう。
だから、わざわざこうして遠くまでデートに来ていたのか。
『大切なんだね』
そう言おうとして、羅凍は言えなくなった。沙稀が全身でそれを肯定しているように見えるほど、余裕がなさそうで。
羅凍は意外にも思う。『彼女』はクロカッスの色彩を持っているが、鴻嫗城の末裔である沙稀なら、引け目は皆無だろう。
それとも、身長差をよほど気にしているのか。他人の目が気にならない羅凍としては、同調できないことだが。
「お邪魔しちゃってごめんね」
背後から哀萩の声がした。
「いいえ! 全然! ね、沙稀?」
「ああ……紹介できてうれしいよ」
緊張が滲み出ているのが、あまりに沙稀らしくなくて──羅凍は表情を崩さないよう意識した。
「ありがとう。それじゃ」
「ああ、それじゃ」
誰もがにこやかに、手を振って別れた──のに。
また今度は──いや、未来は。
皆が幸せに結婚報告とか、子ども同士の付き合いとか。そういう話しを賑やかにして、おだやかな未来が続いていると──羅凍は想像していたのに。
連絡の取れなくなった当初は、沙稀に嫌われたのかもしれないと不安になった。
何をしてしまったのかと、自問自答する日々を送った。
見当はまったく付かず、けれど、見当が付いたところで時は戻せないとうなだれる。
哀萩はそんな羅凍を励まし続けてくれた。そうして、ずっと言い続けていた願いを羅凍は取り付ける。
だから、羅凍は沙稀のお陰と感謝し、どうしても沙稀と話しがしたくなった。
思い切って沙稀の実家を訪ねる。すると、どこかで会った少女が出てきて、すぐに戻っていった。
そうして、沙稀と背格好が似たような人物が出てくる。
そういえば、沙稀は双子だった。これまで沙稀の口からほとんど出てこなかったから、すっかり忘れていたが。
来た経緯を伝えたら──話しているうちに、悩んでいた答えに気づいてしまった。
絶句した。
『彼女』に出会ったときの沙稀への違和感が、一本の線で繋がったから。
無性に悔しくなった。
沙稀に嫌われたのではない。信じてもらえていなかったのだ。
理解はできる。
沙稀は、知られたくなかったのだろう。知られたとき、特殊な目で見られたくなかったんだろう。
理解はできる。──理解は。
「誰だって、そう思うさ」
ふいに、声をかけられた。
確かに、誰だって恐れるだろう。親しければ親しい相手ほど、特殊な目で見られることを、恐れるだろう。
理解はできるが、羅凍も同じように思われていたことが、悔しくてたまらない。
どんな話しだろうがいくらでも聞いたし、酒も付き合ったのに──親友だと思っていたのにと、悔しくてたまらない。
独りで抱え込まないでほしかったと涙が出そうになる。
──どの面下げて、結婚の報告なんて……。
でも、知ってほしかった。沙稀に。
ずっと何度も『羨ましい』と言われながらも、『結婚式には呼んで』と幸せそうに言っていたから。
結婚式に来てくれれば、また話せるようになる。
けれど、来るだろうか。
──来ないだろう。
結論は出るが、それでも現状を沙稀に知っていてほしいと願った。
「似てないって思ったろ」
「申し訳ありませんけど、そうですね」
よく言われると言って、沙稀の双子が笑う。双子らしからぬ笑顔で。
──確か……沙稀は弟だったんだっけ。
己は双子ではないが、同じく弟だ。いつだったか、そんな話を沙稀とした気がする。
昔を思い出しながら、要件を口にする。
沙稀に伝えてほしいと告げれば、沙稀からほしかった言葉が返ってきた。
「おめでと」
礼を言うと、『よく話は聞いてたよ』と、ポツンと遠い目をして言った。
「沙稀とずい分仲よかったんだな。けど、悪いな。俺も含め家族は、沙稀がどこにいるか知らないんだ」
『でも幼なじみが知っているはずだから、連絡の取れる母に伝えておく』と続いた。
幼なじみなのに、会わないのだろうか──ふんわりと漂う気まずさが、『会えない』と伝わってきた。
「お願いします」
この人は、その幼なじみと何かあったのかもしれない──そんな想像をしながら託す。
「そういえば、これ」
差し出されたのは、背景が抽象的に描かれていて、神々が子ども向けのイラストで描かれている幻想的な表紙の本。目にした羅凍は、まさかと何年も前のことを思い出す。
昔、哀萩にこの世の祖の話をしたとき、『その絵本童話って、今でもまだ……あるのかな?』と言われた。
羅凍は『今度調べてみる』とその場で言ったが、わざわざ鴻嫗城に足を運ばなかった。
その後、沙稀と出会い、話題として沙稀に聞いたことはあった──が、こうして目の前で見られるときがくるとは思っていなかった。
「いつだったか、まだ沙稀に会えていたとき……沙稀に頼まれたんだよ。アイツさ、一人暮らししてから一回しか帰ってきたことなくて。だから俺に頼んだんだと思うんだけど……」
驚いた羅凍は声の主を見上げる。
「いつか、『羅凍』が来たら渡してほしいって」
「いいんですか?」
「沙稀が言ったんだ。それに、貸すだけだからな」
釘を刺すように言うから、羅凍はおかしくて笑う。
「はい、必ず返しに来ます」
まさか現存しているとは思わなかった貴重な品。羅凍は心して受け取る。
初めて見たにも関わらず、なぜか羅凍は表紙のイラストに安らぎを覚える。ただ、その感情よりも、哀萩に見せられるとうれしさが勝った。
「渡せてよかったよ。俺も、普段はここにいないんだ。……会えてよかった」
「こちらこそ」
噂は噂だったなと羅凍は思う。
羅凍にとって『もうひとりの鴻之宮』は『話しやすい人』ではなかった。沙稀と雰囲気が違うからか、なぜかとても緊張してしまった。
沙稀とは、もう会えないだろう。話せないだろう。そう思えば、とても悲しい。
けれど、嫌われたのではないと知れたら、絶望は消えた。
『よかった』とは言えない、決して。
ただ、『俺は幸せだ』と現状を知らせられる可能性があることに感謝する。
そして、沙稀も幸せであるようにと願う。
願うことしか、できない。そう思えばグッと胸が痛いけれど、きっと沙稀は何倍もの痛みを感じていたはずだ。
沙稀は察するだろう。羅凍が『彼女』に実家で会ったと。
沙稀は伝言を聞けば、羅凍を疑わないだろう。
でも、連絡はくれないだろう。
傷はきっと、羅凍が想像している以上に大きい。
「生きていて……くれているんだ。それでいいじゃないか」
伝言してくれると瑠既は言った。
だから、それでいいと納得しようとする。
心底よかったと思うのに、涙が羅凍の視界を邪魔した。




