34▶l 琴瑟相和 1:羨望
「会いたいって思ったら、迷わず『行く』って言っちゃってた」
悲しそうな声なのに、照れているように誄には見えた。だから、
「沙稀様がよろしければ、私に服を選ばせてください!」
と言っていた。
身を乗り出していたと気づき、妙に恥ずかしくなって体を戻す。どう言い訳をしようかと考えていたら、
「ありがとう」
と、朗らかに沙稀が笑った。
あんなに幸せそうな笑顔が嘘だったかのように、誄の腕の中で沙稀は号泣している。
声も殺さず、まるで子どものように。
ギュウッと誄は抱き締める。そうして、ひとつの思いに囚われる。
──こんなにまっすぐに愛される人が羨ましい。
誄もずっとまっすぐにひとりの人物を想っていた。その想いは届いていたかもしれないが、叶わなかった。
向けていた方向を見失って、どう生きればいいのかもわからなくなりそうだった。
急に霧の中に迷い込んだような学生時代。地に足がつかない日々を過ごし、数ヶ月が経ったころ、新たな出会いをした。
その日は教室の移動があった。移動中に重要な提出物をうっかり落とし、割ってしまった。卒業に関わる大事な物だ。
誄は青ざめ、立ち止まる。戸惑いながらも欠片を拾おうとしたが、ふと『留年』という言葉が頭を過った。
ただ、それで妙に冷静になった。それでもいいかなと、誄はすべてを諦めそうになる。
入試試験を受けたのも、入学したのも、相応しくなりたいと思う人がいたからだ。これまで頑張れたのも、その思いがあったからで。
──辞めちゃっても……いいかなぁ……。
弱音が浮かんだ、そんなとき。
「よければどうぞ」
声に反応して視界を少し上げれば、目の前には落としたはずの物がある。
驚いた誄は更に視線を上げた。そこには黒縁の眼鏡をかけた、年下であろう少年。白緑色の透き通るような髪の毛と、薄荷色の瞳を持つ人物。年々、様々な噂が飛び交う者だ。
誄はその人物にも驚き、尻餅をついた。すると、
「大丈夫ですか?」
と、今度はすぐ手が差し伸べられる。
──本当に、実在したんだ……。
入学してから飛び級を繰り返しているという超人、忒畝。誄はこれまで会ったことがなく、もはや空想の人物ではないかと思っていた。初見で忒畝とわかったのは、その特徴的な──さほど光がなくても、光をきれいに反射させる──白緑色の髪。
「だ、大丈……わっ!」
落ち着くために胸に置こうとした手をスッと取られ、誄は一瞬で立ち上がる。あまりのことに大声を出してしまって恥ずかしい。
そうして、立ち上がってみて気づく。背は誄の方が十センチ以上高い。噂通りなら、忒畝は誄より五歳下だ。
「あ、ありがとうございます」
それでも、今年同学年という噂だった。卒業の提出物を忒畝が作成して持っていてもおかしくない。
ドキドキと胸が高鳴っている。急に引っ張られて立ち上がったのだから、驚いただけだろう。
誄が礼を言ったからか、忒畝はにこりと笑顔を返してきた。
「急ぐでしょう? 片付けておくのでいいですよ」
「で、でも……」
「僕、すぐそこのクラスなんです」
『はい』と、忒畝から何かを差し出され、反射的に受け取る。
「あの! これ……」
先ほど差し出された小瓶だ。作るのに、誄は何週間も苦労した。だからこそ、嘆声を上げてしまった──のに、忒畝は、
「いいんですよ。僕の提出は明日ですから」
さも『そのくらい』と言いのける。
誄はその言葉に面食らう。ただ、このくらいサラリと言われてしまうと、さすが飛び級をし続けてきただけのことはあるとも、思ってしまった。
「あ……ありがとうございます」
『このお礼はいつか!』なんて、どう礼をしたらいいのかもわからず頭を下げる。
それを忒畝は大人びた笑顔で受け、
「早く行った方がいいですよ」
と、背を押す。
確かに、忒畝の言う通りで。教室を移動するのは、決して時間にゆとりがあるわけではない。
あたふたと誄は移動教室の方へと向き直る。そうしてまた会釈をし、その場をあとにした。
それから誄は礼をと考え、何度か忒畝に接触をした。だが、礼は返せず。ただ時間が過ぎ、忒畝の誕生日がやってきた。
プレゼントを用意して手渡すと、忒畝が目を見開き──表情を曇らせる。
「あ~……知らなかったのなら、申し訳ないけど……」
誄が目をパチクリすると、忒畝は珍しく言いにくそうに言葉を続けた。
「僕、妻と娘がいるんだ。だから、これは受け取れない」
誤解や心配をされたくないからと返され、立ち去られる。
ポツンと取り残された誄は、しばらく呆然として。手に残ったプレゼントの重みを実感して──初めて己の中に起きていた変化に気づいた。
いつの間にか、好意に変わっていたのだ。振られるまで気づかなかった。
とてもおかしな気分だった。
瑠既への気持ちが変わらずあるのに、移り気していたことが。
だから、こんなにもまっすぐ想い続けられている相手を、ただただ羨ましいと思い、誄は沙稀を抱き締める。
沙稀は知らないのだ。
恭良が流産だったこと。迷いに迷って、ひとりで育てようとしていたこと。
しかし、これらは口が裂けても沙稀には言えない。
恭良の決断は誄には口の挟めないことで、沙稀と恭良の関係も、誄には口を挟めないことなのだ。
泣きじゃくる沙稀の背を、ポンポンとやさしく叩く。
服を選ばなければよかったとも、行かせなければよかったとも、誄は後悔しない。
沙稀は、決別しなければと行ったのだ。
誄はとびきり格好いい姿を恭良に見せようと、服選びを申し出た。
服を選んでいる最中に何度も瑠既の姿を思い浮かべたけれど、そうして選んだ姿を恭良も見惚れたに違いない。
出席した沙稀が戻ってきたら、泣くのはわかっていた。だから、誄は受け止めると伝える。
「沙稀様、私と一緒に暮らしませんか」




