【22】ふたりの過去(1)
歩くペースがまったく違うふたりには、いつの間にか一定の距離が生まれていた。時折、瑠既を待つように沙稀は足を止めて振り返る。歩幅を合わせるほどの余裕はないが、瑠既が生まれ持ったものを忘れているわけではない。
そんな沙稀の態度を何度も見ても、瑠既は決して走らない。甘んじているわけではなく、走る方が心配や迷惑をかけてしまうと理解している。余計に沙稀を苛立たせないようにするためには、マイペースで歩く方がいい。
入り組んだ城内を迷わずに歩いてきた沙稀だったが、ある一定のところに辿り着くと、足が止まってしまった。
その先の壁は、より繊細な彫刻が壁にほどこされ、周囲はキラキラと輝いている。城内の気品を引き立たせている濃い赤紫の絨毯は、紫紺に変わる。──これより先は、鴻嫗城の近親者しか立ち入ってはいけない区画。
足を踏み入れることをためらう。鴻嫗城は最高位の城。よそ者がこの区画に立ち入ることは、決して許されないと。
しかし、沙稀が足を止めたのは数秒だけだった。近づいてくる瑠既をすぐに意識し直す。ためらいを見せないようにと、何もなかったかのように歩き始める。
絵本童話を大臣に取ってきてもらったときとは違い、今は瑠既がいる。もし、誰かに見られたとしても、言い訳ならいくらでも言えるのだろう。
しばらく紫紺の絨毯をまっすぐ歩いたあと、おもむろにひとつの扉を開けた。──ここは、何年も使われていない部屋だ。
沙稀は扉を開けたまま、明かりをつける。白い光が広い室内を照らす。沙稀の視界には、ちいさなベッドやちいさな衣服、飾られた写真の数々が映った。写真には、髪の長い男子がふたり、同じような服装をして、同じような表情をしている。──クロッカスの瞳と髪の幼いふたり。彼らは幸せそうに微笑み合っていた。その幸せな時間が、永遠に続いていくと信じているように。
部屋に入るまで心にくすぶっていた怒りは、吹き飛んでいく。
ドアが閉まる音がして、沙稀は瑠既が入室したと察する。
「昔の俺の部屋。懐かしいっていうか……変わっていないとは、思わなかった」
ここは普段の沙稀の部屋ではなく、幼少期に過ごした部屋だ。あの日を境に、一切近寄れなかった部屋。大臣に絵本童話を取りにきてもらったときのこの部屋の状態は、一切知らない。聞きもしなかった。
むしろ、この部屋の状態が変わっていても、絵本童話なら、この区画内のどこかにあるだろうと思っていた。
「昔はこの広さが嫌いだった。不安なときはより不安を空間が広げるようで。まぁ、今となっては遠い過去の話だ」
恭良の護衛になってから使用している部屋と比べても、こちらの部屋の方が格段に広い。沙稀は幼いゆえに感じた広さだと思っていたが、改めて失ったものの大きさを目の当たりにしていた。
「となりが俺の部屋だった。俺たちはガキのころはよく互いの部屋で一緒に寝たもんだ。寂しさと不安をかき消すみたいに、一緒にいた。沙稀は、体の弱い俺を守るように寄り添ってくれて、俺は双子でよかったと思ってたよ」
ふたりは幼いころを思い出し、立ち尽くしたまま部屋の中を懐かしいような、悲しいような瞳で見る。
ふたりとも七歳で時が止まった感覚があり、部屋に入った瞬間にあふれたのだろう。
ただし、それはこの部屋にいた最後の記憶に辿り着くと、ふたりは強制的に現在へと戻った。──ふたりには、死を覚悟した最悪の思い出だ。
瑠既の視線はゆっくりと沙稀の髪へと動き、止まる。
「そんなに、ジロジロ見るなよ。……無理もないか。こんな色をしていれば。髪も、瞳もね」
視線に気づいたように、沙稀は言う。ガラス越しに見える己のリラの髪を一目だけ見、瑠既とすれ違う。横向きでソファに座り、足を伸ばした。こうでもしなければ、瑠既はとなりに座ってきそうだと思ったのかもしれない。
「俺がこうして生きているなんて、思いもしなかっただろ。この間、緋倉で会ったとき、俺も驚いた。十八年ぶりに顔を合わせたのに、互いに一瞬で存在を理解したんだからな。長い間、遠く離れて育ち、互いに想像していた容姿と違っていたにも関わらずさ。双子ってのは、残酷だと思ったよ」
瑠既は沙稀が発した言葉が今でも耳にこびり付いている。
「お前がそういう気持ちなら……帰ってきたくないのなら、帰ってくるな」
そういう気持ち──ふと、瑠既の手は襟足に伸びる。規則を知っていて、短く切った髪。それから伸ばそうとしたことは一度もない。それを知っているかのように、沙稀は口を開いた。
「俺は……お前がいなくなるなんて、思いもしなかったからさ」
「違う! 違うんだ、沙稀。俺はそんなつもりじゃ……」
「なかった……そう言いたいのか?」
沙稀の声は、瞳は瑠既をひどく責める。ソファから立ち上がり、瑠既に背を向け、窓に近づく。その背中は、悔しさを滲ませている。
「あんな俺を残して、勝手に出ていって! ずっと……帰ってこなかったくせに」
「それは……」
瑠既は決して、自分の意思で出ていったわけではない。大臣が身を案じ、裏道から鐙鷃城に行くようにと逃がしてくれたにも関わらず、迷ってしまっただけだ。
どこをどう走ったのか覚えていない。帰り道もわからず、覚えているのは『追手が来るのでは』という恐怖と、胸の苦しさ。
だが、それを沙稀は知らない。いや、もし知っていても、そのあとのことは沙稀に言えない。責められるしかない。言い訳ができないのだから。
「お前のことだ。百歩譲って、道に迷って鐙鷃城に行けなかった。帰ってこられなかっただけだとしよう。それでも、十八年だ。帰ってこようと思っていれば、こんなに歳月が流れる前に、どうとでも帰ってこられたはずだ。……帰ってくる気なんて、サラサラなかったんだろ? ……そんな髪までして」
瑠既は口を開けない。
苦しみにもがき、意識を取り戻したあとのこと――そのとき、何があったかなど、到底口にはできない。尚且つ、それから綺に身を寄せる十四歳まで、それは続いていた。それがあったからこそ、瑠既は帰れないと思い、髪を切ったのだから。
視線は下がり、表情は曇る。
言い訳のひとつもせずに黙り込んでいる瑠既に対し、沙稀は言葉を呑む。好んで言わないのではないと察したからだ。それを強引に聞き出す気はない。
瑠既が生家と決別してもいいと思うほどの何かがあったのか、それとも、それとは無関係の何かがあるのか。どちらだとしても、沙稀は今の瑠既の姿を認めざるを得ないのだから。
沙稀は体の向きを変え、窓に背を向ける。ようやく瑠既と向き合い、諦めるように言葉を出す。
「いいよ。違う話しがしたかったんだろ。本当はさ。何? 何が聞きたい」
元々、瑠既は自分から話せるような人間ではなかったと沙稀は思い出す。人見知りでいつも双子の弟に隠れて話す。──瑠既はそんな少年だった。
「待っていたか、俺のこと」