33■宮 10:死中求活2
立ち止まった沙稀に、母が駆け寄り抱きついた。『会いたかった』と泣く母は、場内の雰囲気を一変させた。
謝罪をした沙稀は、母を抱き締める。
母を落ち着かせようとしている沙稀を見、瑠既は思い出す──頬が腫れたまま自宅に戻った日の、沙稀と母の光景を。
『また帰ってきなさいね。貴男の家でもあるのだから』
あのとき、父も聞こえる場所にいた。母は告げ、沙稀は『はい』と返事をしたのに──結局、沙稀は家に顔を出さないままだった。
──そりゃ、母上は沙稀が恋しいんだろうな。
瑠既よりも早く親元を離れた分、尚更会いたかったのだと解釈する。
『元気だった?』、『ちゃんと食べている?』母は泣き止んだら、今度は質問が止まらない。
『はい』と返事を繰り返す沙稀から、母を父が離す。
「今日の主役は恭良だ。沙稀とは挙式のあとにでもゆっくり話しなさい」
チラリと母に見られた父は、一瞬ギョッとする。一方の母は、すぐさま沙稀に言葉を送った。
「今日は家に泊まるでしょう? そうしたら、ゆっくり話せるわ」
せがむような母に、沙稀は笑顔を送る。──母の手をスルリと離しながら。
そうこうしているうちに定刻となり、瑠既はすかさず沙稀の手を引っ張る。
親族はそれぞれに定位置が決まっている。それとなく瑠既は沙稀を定位置に連れて行く。
親族のそれぞれが正しい位置に着き、新郎新婦を待つ。
鐘が鳴った。
足音がコツリ、コツリと聞こえ始め、拍手が徐々に強くなっていく。恭良の姿が見えた。
瑠既が沙稀を見れば、心を奪われているように呆然としていて。入り口から恭良が近づいてくるにつれ、自我を取り戻したのか。
視線を下に投げ、ゆっくりと瞳を閉じ──恭良が通り過ぎたころには、祈るように拍手をしている。
必死で平常心を保とうとしている沙稀の姿を、瑠既は見ていられなくなった。
挙式は、沙稀の気持ちに寄り添うことなく淡々と進んでいく。拍手が止み、婚儀が宣告され、誓いの言葉が交わされる。
となりにいる沙稀の異変を感じ、瑠既はまた様子を伺う。
いつから目を開け、見ていたのか。沙稀の視線は恭良に一直線だ。呪いにかかったかのように、反らせない──そんな印象を受けた。
「指輪の交換を」
もしかしたら沙稀は、恭良のとなりに自身がいると想像した日々を思い出しているのではないか。
瑠既がそんな不安に駆られたころ、胸を突き刺す行為を誘導する声が聞こえた。
──やめろ!
──見るな!
ふたつの思いはほぼ同時。ただし、瑠既の願いはどちらも叶わなかった。
沙稀の頬を涙が滑り落ちる──が、瑠既が見たのは一瞬だ。次の瞬間には、席を立つ影に覆われた。
瑠既が見上げた沙稀は、恭良を見たままだ。ふたりは、視線が合ったのかもしれない。
スウッと息を吸った沙稀は周囲に目もくれず、一目散に退室していく。
「あ……」
思わず瑠既はちいさな声が出た。その声が一気に周囲の視線を集める。
立っていたなら、一歩後退をしただろう。けれど、座っていた瑠既は苦笑いを浮かべ──ても場は何も好転しないと瞬時に判断し、慌てて沙稀を追った。
あれでは、一時噂になってしまったシスコン騒動を、本人が肯定したも同然だ。
だが、あの状況では──沙稀が一方的に恭良を想っていたことになる。瑠既には、気に食わない状況だ。
──沙稀は自分の想いをやり過ごそうと、どんなにしてきたか!
腹が立って仕方ない。沙稀は長年、恭良を遠ざける行動をしてきたと知っている。
どこにいるかと足を止める。親族の控え室には行かないだろうと思えば、誰でも立ち寄れるような場所に駆け込んでいるかもしれない。
ふと、近くのトイレに立ち寄ってみれば、そこに沙稀はいた。
恥も外聞もない。声は殺しているが、号泣と言っていい。
洗面台に両肘をつき、涙も鼻水も──顔を上げられないほどになっている。瑠既にできることと言えば、せいぜいハンカチやティッシュを差し出すくらいだ。
差し出せば沙稀の視界に入ったのか、顔を流し始めた。ただ、流し始めたからといって、すぐにピタリと止まるはずもない。瑠既はフラフラと歩き、沙稀と距離を取る。
水の流れる音をしばらく瑠既は耳にしていた。そうして、水の音が止み、瑠既は様子を確認する。
沙稀は洗面台を背にして力なく座っていた。今にもうずくまりそうに、肘を膝の上に置いて、何とか額を片手でささえている。
「我慢できなかった」
「腹を壊していたって言えば?」
「本当に、そうだったなら……どんなにマシか」
沈む瞳がすべてを物語る。どれほど屈辱的なことよりも、避けたかった行動だったのだろう。
「そう思うなら、そう言えば戻れる」
「こんな顔をしていてか?」
沙稀の指摘は正しい。あれだけ泣いていたのだ。母や父なら見過ごすかもしれないが、新郎やその親類は見逃さないだろう。
「戻らないわけには……いかないだろ」
噂は所詮噂だと払拭しなければならない。瑠既は、そう言ったのに──。
「もういいだろ。間違いじゃない」
沙稀は観念するように言い捨てる。
「間違いだろ! このままじゃ、お前が一方的に……」
「間違いじゃないさ」
間髪ない否定は、沙稀がそう思っているということだ。そのことに、瑠既の胸がえぐられる。
「それに、間違いだったとして。あの場に行ってそれを正して……どうなる?」
確かに、沙稀の言う通りだ。それを正したところで、よい方向にはいかない。
「俺が一方的だった、それでいい。俺がこの想いを周囲に知られたくないという気持ちは、とうになくなった」
恐らくそれは、沙稀が唯一帰ってきた日には、すでになかったということだろう。そうでなければ、父にあんなことを言えなかったはずだ。
「それに……一方的だったと思う以外に、どう……受け止めたらいいんだ……」
涙声が混じる。
瑠既はふたりがどう別れたのか知らない。ただ、きっといい別れ方はしていない。
それならば、恭良を遠ざけていたときよりも辛かったのかもしれない。
「悪かったな。迷惑をかける」
瑠既が頭を整理している間に、沙稀は歩いていってしまった。
『やっぱり来るんじゃなかった』──沙稀は言わなかったが、背はそう言っている気がした。
うなだれる。力が入らないなんてものじゃない。体を動かせないのだ。
つくづく思う。あんなに強烈に、誰かを想うなんて──瑠既には沙稀以外にはできない。
沙稀のために何かできればと思うのに、何の役にも立てない無力さに押しつぶされそうになる。
今日の沙稀は、珍しくずっと同じ色彩を持つ者に見えたのに。
瑠既が動けるようになったあと、念のため建物の中を見て回った。だが、どこにも沙稀はおらず──会場へと戻ったが、やはり沙稀はいなかった。
そうして、沙稀と連絡が取れなくなった。
嫌な予感がして、瑠既は沙稀の住む克主付属学校の寮へと赴く。
けれど、何度ドアを叩き呼んでも反応はなく。瑠既は埒があかないと判断し、従業員用の入り口へ向かう。
そこで、沙稀の安否を確認したいと保安所の係に伝えると、思ってもいなかったことを言われた。
「お辞めになって、退室されました」
目の前が真っ暗になった。
沙稀は家族の誰にも行き先を告げず、身をくらませたのだ。
──誄ちゃんなら……。
知っているかもしれない。ただ、瑠既は誄に聞けない。
──母上からなら、聞いてもらえるかもしれないな……。
それには誄とのことを話さないといけなくなるかもしれないが、ためらってはいられない。
『生きていてくれるならいい』としか、願えなくなった。最悪の事態が、どうしても浮かんでしまう。
──生きていろよ、沙稀!
どこをどう、歩いていたのか。
いつの間にか瑠既が働くようになった、旅館に着いていた。
倭穏が瑠既を見つけ、手を振っている。
足が、力を失った。
その場に両膝をついた瑠既に、倭穏は駆け寄ってきてくれたのか。気づけば、倭穏はすぐ近くにいて、手を伸ばしてくれていた。
倭穏の手を取り──グッと引き寄せる。
「好きだ」
ギュッと抱き締めた倭穏は、ふんわりと瑠既を包んでくれた。
「私もです。私も、大好きです」
その声はいつになく大人びていて、瑠既は安心感で泣きそうになる。
何があったかと、倭穏は聞きたかったに違いない。
けれど一方で。聞いてしまえば、この機会を逃してしまうと思ったのかもしれない。
力強く抱き締めていた瑠既の腕の力が、ゆっくりと抜けていった。そうして、瑠既はかつてのやり直しをする。
その契りは、決して様になるような格好いいものではなかったけれど、偽りのない、揺るがないものだった。




