30◀きれいな虹が見える
口にした途端、発言と真逆の感情が恭良を埋めようとしてきて、より涙が落ちる。
目をギュッとつぶればつぶるほど、なくなっていく未来が鮮明に浮かんでくる。
押しつぶされそうになる。壊れそうになる。壊れてしまえばいいと己を呪う。
母が強く抱き締めてくれた。そうして、
「付き添うからね」
と、恭良の決断を尊重してくれた。
何ヶ月間か、恭良は呆然として過ごした。何も考えたくも、感じたくもなく──強烈な多幸感が過ぎたあとの抜け殻のよう。
沙稀とは、会わずに済んでいる。
連絡が途切れることはなかったが、忙しいのか、かんたんなものしか返ってこなかった。
そうして、恭良の心身が落ち着いたころ、沙稀から呼ばれる。
呼ばれたのは、以前と同じ喫茶店。到着して待ち合わせと告げたら、偶然以前と同じ席に案内された。
そこには先に沙稀がいて、恭良が正面に座るなり、
「今日は恭良に渡したい物がある」
と、片手で隠れるほどの小箱をコトリと置く。
「開けてみて」
やさしい眼差しに、どこか恥ずかしそうな口元。いつになく落ち着かない雰囲気がチグハグで──恭良は軽率に触れてはいけない気がして、手を伸ばせない。
目の前にある小箱はきっと──沙稀が忙しくしていた理由。恭良をこれまで第一優先にしてきた沙稀が、最優先にした物だ。
そんな大事な物に、触れる資格が果たしてあるのか──恭良は自問自答する。
触れてはいけない。
言わなければいけないことが、ある。
「私、もう……」
懸命に口を動かし、元通りの体になったと伝える。
言葉を忘れてしまったかのように、沙稀は声を発さない。
いや、何かを言いたそうだと、恭良が思いたいだけかもしれない。
待っていれば、恭良の望む言葉は聞こえるかもしれない。
待ってはいけないと、恭良は判断する。
「そういうことだから……さようなら」
恭良はこう言うのが精一杯で。力を振り絞って立ち上がり、振り向いては駄目だと自らに言い聞かせ、淡々と家路につく。
振り向いていたら、沙稀はどうしてくれただろう。
けれど、それを想像したところで、浮かぶのは恭良の望む行動だけだ。
立場が逆転した。
きっと、付き合う前の沙稀は、こんな心境だったのだ。
夏祭りのあの日、沙稀と結ばれて迎えた朝は特別な朝だった。
生まれ変わったかのように、見える景色がまったく変わっていて驚いたほど。
浴衣を着られないと気づいた恭良に、沙稀はていねいな着付けをしてくれた。
「祭りの混雑が始まる前に、今度こそ送るよ」
顔がよくて優秀で、料理も着付けもできる。こんな人が彼氏だなんて、信じられない奇跡が起こったと舞い上がっていた。
玄関を出て、どちらともなく手を繋ぎ。とろけるような記憶の数々が駆け巡り、恥ずかしさで足がすくむ。
あんなことを数多くの大人たちは経験していて、何もなかったような顔をして歩いている──と、世界観まで変わってしまった。
「今度は、いつデートしてくれる?」
恥ずかしそうな声と表情に、脳内の思考が吹き飛ぶ。
──こんなことを、言ってくれる人だったんだ。
ここ数年、突き放すような態度しかとられなかった反動か。挙動不審な態度しかとれなかったことだろう。何と返したか、まるで記憶がない。
数週間が経ち、恭良は憧れの物をプレゼントされた。ポケットに入れられるサイズのメッセージ送受信機『ポケットメッセンジャー』、略称『ポメ』。
恋人たちの間で流行っている物で、特に恭良の年代では『年上の彼氏がいる象徴』だ。
コンパクトのように開ける造りで、上部が液晶、下部はボタンで数字が押せるようになっている。数字二文字を操り、文字を入力してメッセージを送れる。
送受信先は登録さえすれば誰とでもやりとりができる物もある。だが、それよりもひとりだけ登録できるタイプは低額で利用でき、恋人同士で持つには主流らしい。確かに、ひとりにしか送れない特別感もある。
恭良が沙稀からもらった物も、後者だった。ただし、最近発売された限定版。
略称の『ポメ』という響きから『子犬みたい』と言われ、通称が『子犬』となり、ブームに火がついた。発売元はそれを利用し、様々な子犬をモチーフにした限定版を発売している。それも更なる話題になり、過熱がとまらない。最新版はフワフワの子犬を模した物で、密かに恭良もかわいいと心惹かれていた。
「うれしい」
思わず笑みがこぼれる。何重もの喜びだ。
ふと、沙稀が裏面を指さす。見れば沙稀の持っているポメには雪の結晶のちいさなシールが付いていた。
驚いて渡されたポメの裏面を見ると、魚のちいさなシールが付いている。
「今回のから、いくつか絵文字が送れるんだって」
開いてから見れば、数字の他にボタンがひとつ多い。何度か押すとシールの柄と似た絵文字が入っていた。
喜びで声にならぬ声を上げると、沙稀にキュッと包み込まれた。
「たくさん送ってくれたらうれしいな」
危うく奇声を上げそうになる。何とかこらえるが、頭が回らずどうにか身振り手振りで同じ気持ちだと伝える。
幸せすぎて、ポメは恭良の宝物になった。
寝るまで何度も何度もメッセージを送り合い、握り締めて眠る日もあった。
会える日は、なるべく大人っぽい格好をして会いに行った。
出かける先はいつも少し離れた場所で、何となく理由を理解していたけれど、聞かないでおいた。
手を繋いで、普通の恋人でいられるのがうれしくて。でも、普通の恋人ではないように感じるときも、時間が経つにつれ増えた。
明らかに、沙稀が意識している。
年齢なのか、それとも──どちらかと考えて、恭良は『どちらも』と結論づけた。
手は繋いでくれる。
大事にしてくれていると伝わっている。
たまに抱き締めてもくれる。切ないほどにやさししく、強く。
ごくたまに、頬や口元に触れる程度のキスをする。
一緒に寝ても──同様だった。
年末年始を一緒に過ごした今年の年明け。沙稀の誕生日に何かあげたいと、ほしいものを聞いたとき。
「恭良がほしい」
体中を溶かすような言葉に、少し卑怯だと思った。長い間、お預けをされていたのはこっちなのに、と。
それから一ヶ月して体調の変化に気づき、不安でいっぱいになって──でも、沙稀は涙を流して喜んでくれた。
会えなかった日々は、本当に忙しかったんだろう。
どれだけ働いていたのか。
無駄遣いをする人ではないけれど、無茶をして指輪を買ったのは想像できた。
どれだけ無理をさせてしまうのかと、怖くなった。
今更だ。
覚悟がなかったのは恭良の方だったと、思い知らされてしまった。
大好きだから一緒にいたいという気持ちだけだった。
『これから』を考えると怖くなるから、考えなかった。
でも、きっと沙稀は、いつも先のことを考えていたのだろう。
その第一歩が家を出ることで、恭良から離れることだった。
涙がポロポロとこぼれていく。
『もう来ては駄目だ』と言われたときに、我慢をすればよかった。寂しくても、悲しくても。
どれだけわめいても、時間が経てば──忘れられたなんて、言えない。
離れる覚悟なんてない。
でも、もうこれ以上、辛い思いを沙稀にしてほしくない。
離れる覚悟を、しなくてはいけない。
どれだけ寂しくて、悲しくて、辛くても。
産まれてくる子は、とてもかわいいだろう。
そして、とても可哀想だろう。
沙稀は際限ないやさしさと、愛情を注ぐだろう。
沙稀がいてくれれば、どんなに幸せだろう。
ただ、それは我が儘だ。
どれだけの好奇の目に沙稀がさらされるのか。幸せ以上の苦しさで、沙稀を縛り付けることになる。心を押しつぶされるほどの苦しみだ。
幸せは充分もらった。今度は、幸せを望む側に──と願えるほど、まだ大人ではないけれど。願える人に、なれたらと望むことはできるだろう。
沙稀が家を出て、踏み出したのに引っ張って、すべてを放棄させた。その想いを鑑みれば、容易いことのようにも思える。
けれど、心は正直で。ひとりで決断をするには、まだまだ子どもで。母に何度も言おうとして言えず、ようやく打ち明けられた。
沙稀と会わない間、悲しみを必死に受け止めた。
だから、別れを演じられた。これでよかったと思う。
さようならとはっきり言ったが、あれだけ愛情深い人だ。言葉の表面通りだけでは、受け取らないだろう。
何回も受信を知らせるポメに、心をえぐられる。
悲しみが文字から浮かび上がって滲む。
『私だって』と伝えたくなる衝動をグッとこらえて、かわいい子犬を遠くへ置く。それでも、子犬が何度も受信を知らせる。
──どうして返さなかったんだろう。
別れ際にポメを返せばよかったと思いつつ、理由は明確だから嫌になる。
どんな言葉でも、沙稀からの言葉がほしくてたまらないのだ。




