29◀◀雨が止まない 2
そう言うと兄はとなりに立って、
「恭良とお揃いの髪型にしようかな」
と冗談を言いながら同じ鏡の中で笑っている。結局は、首元でひとつに──下部でていねいにまとめたように見えた。
兄が髪を束ねている姿に見惚れていると、不意に目が合い──瞬時驚いたように目を見開いて。また、悲しげに微笑んだ。
「でも、少しだけにしよう。混む前には送る」
恭良の弾んだ心を、兄は一言で抑えた。
はしゃいでしまうと迷惑をかけてしまうかもしれない、少しでも一緒に行けるならうれしい──色んな感情が入り交じる。
だが、『嫌われてしまったわけではなさそう』と感じられ、恭良は安心できた。
寮を出てからしばらくポツポツと歩いたが、恭良が慣れない物を履いていたせいか──距離が離れてしまった。そう気づいた矢先、兄が振り向く。
恭良が急ごうとすると、スッと手が差し出された。
「迷子になったら大変だから」
駆け付けてくれたのかと見上げ、吸い込まれるように手が伸び、握る。ギュッと握り返され、兄と手を握ったのは何年ぶりだろうと、遠い昔のように思い返した。
兄を見上げ、ずい分大人に感じた。グッと離れてしまった感覚に襲われたが、しっかり握ってくれている手が心強かった。
手を繋いでいるお陰か、兄は恭良にペースを合わせて歩いてくれた。つい舞い上がり、歩いているだけで楽しくなる。すると、いつの間にか昼が近づいていたようで、
「何が食べたい?」
と兄が言った。
空腹ではなかったが、何かを兄と食べたかった。その一心で、恭良は目に付いた屋台を読み上げる。どれでもいいと二個も三個も口にしたせいか、兄は恭良を連れてそれらを買ってくれた。
そうして手にした複数の物を、
「半分しようか」
と、恭良がどれでも食べられるようにしてくれる。
昔から、こうだった。
この兄は、一番上の兄とは違い、恭良の望みを叶えてくれる。『あれがいい』と言えば欲しい物を与えてくれ、『これがしたい』と言えば家族を説得してくれた。
恭良にとっては、誰にも代えられない特別な存在で──食べながらそんな風に思っていたら、ぼんやりしてしまったようだ。
「ソース付いてる」
ふいに、大きな手が顔に触れてきた。
唇の端に触れた、やさしい親指にドキリとして──流れるように親指をなめた姿に妙な色気を感じる。
ドキドキと脈打つ。こんな兄を彼氏に持つ彼女は、きっと心臓がいくつあっても足らない──想像の彼女にちょっとだけ同情をして、こんな彼氏なら独り占めしたいよねとも罪悪感が湧く。
──きっと、ヤキモチやきさんなのね。
だから兄は、彼女に妬かせないよう未然の対処をした。だからきっと、『恭良は何も悪くない』だったんだろう。
そういえば、兄の彼女と一度会ったことがあった。いや、あのときは『元彼女』と兄は言っていたが。
あの『元彼女』だって、兄を独り占めしたいくらい──大好きだったんだろう。
兄を独り占めしたい気持ちは、恭良もよくわかる。ただ、『彼女になりたいのか』はわからない。でも、独り占めできるのが、彼女の特権だとするなら──。
「そろそろ混んできそうだね」
淡々とした兄の言葉が、恭良の心に痛みをもたらす。
『もう送る』ということだ。
『もう帰れ』ということだ。
兄はやさしい。
『元彼女』が家に来てしまうくらいに──今は、どんな人が彼女なんだろう。
キュッと握られた手に、知らない兄の彼女を思う。
羨ましく思う──こんな兄を、独り占めできるのだ。
祭りに来てから兄は、たくさん笑ってくれた。今だって、恭良が見上げて、気づけば微笑みを返してくれる。
今度は、いつ会えるだろう。
──大好きな人なんだろうな。
思わずギュッと握っていた手を、同じように握り返されてドキッとする。
ただ、兄は周囲を警戒するように見ていて──恭良も見渡せば、いつの間にか人の賑わいが増していた。
「遅かったか」
後悔の含んだ兄の声。
屋台で色々買ったのは昼前だったはず。しかしながら、恭良は食べるのが早い方ではない。恐らく食べている間に昼時を迎え、混雑する時間に近づいたのだ。押し寄せてくる人の波を、逆流することになる。
道の端と人の隙間を歩いていたが、人の波が膨らんできた。強く手を握っているのに、離れてしまいそうになる。
すると兄は立ち止まり、壁とのわずかな空間に恭良を入れた。
恭良はすっぽりと入った壁と兄との間で、兄の服をつかむ。──兄が何度も人と衝突していると伝わってくる。人の波に流され離れないよう、踏みとどまっていると、伝わってくる。
守られている──安心感がじんわりと心に広がってきた。そんなとき、兄がスッと屈んだ。
顔が近づいてきて、首元で止まる。
頬が触れ合う距離だ。唇が耳たぶに触れそうだ。ドキンドキンと、ふしぎな音を心臓が鳴らし始める。
そうして、予想だにしていなかった囁きが聞こえた。
「好きだ」
このたった一言で、恭良は溶けた。
兄が家を出ていってから寂しいと──兄のことばかりを考えるようになったと思っていたが、原因がはっきりとした。
ブワッとあふれる感情のまま、兄の体にギュッとしがみ付く。
「私も」
こんなに大好きな兄を離したくない、離れたくないとしがみ付く。
そうして、兄は祭りに来る前とは正反対のことを言った。
「うちに来る?」
感情を意識してしまったからか、聞いたことのないような艶っぽい声だった。『行く』と答えたら、なぜかもう後戻りはできない気がしていた──のに。
「うん」
考える間もなく返事をしていた。
頭に何かが触れて、それは頬にフワリと触れて。いつの間にか閉じていた瞳を開く。
見つめられていたのは、たとえようのない美しい瞳。視界を埋め尽くすほどの美しさに魅了され、沈む。
予感は、当たっていた。
恋人同士がする、愛情の確認をした。
人の波が去ってまた手を握ったころには、これまでとは違う感覚で。うれしさと恥ずかしさが入り交じって、うつむいて歩いた記憶が残っている。
来た道を戻り、ドキドキしながら呼び鈴を鳴らした玄関の前まで来て。
「どうぞ」
ていねいに部屋へと招いてもらった姿は、『兄』ではなくなっていた。
どれくらいぶりだったか。
ふたりで風呂場にいたのは。
懐かしいと話しながら、『今なら、まだ戻れるのだろうか』、『もう、手遅れだろうか』──そんな戸惑いの声が聞こえてきそうだったのは、恭良だけではないはずで。もしかしたら、本当にそんな会話をしたのかもしれない。
それでも、他愛のない話をいくつかして。
明確な終止符は打たれた。
「もう、『兄』と呼ぶのはやめて」
『お母様、あのね』
何度も言おうと思った言葉は言えなくて。
沙稀が傷を負ったまま出ていったあとも、母は、恭良を責めなくて。
長兄は、目が合えば恭良を見なかったかのように、反らす。
そうだよね、と思う。これまで、散々忠告は受けてきたのに、従わなかったのだから。
喜べなかったプロポーズは、苦しさにまみれて。溺れて。
これは、これまで沙稀が味わってきた苦しさだったと、初めて知った。
そうして、決断をした。手放さなければと。
「お母様、あのね」
恭良は、母に初めて気持ちを吐露する。
「大好きだった」
きっと、これからもずっと変わらない。
「うれしかった」
一緒にいられることが、何よりも。
「幸せだった」
でも、
「これまで、どれだけ沙稀……兄、様が……苦しかったのか、やっと、やっとわかって……」
とても辛くて、たまらない。
「だから、もう、お別れしなきゃって……」
これ以上の我が儘を大好きな人に押し付けてはいけない。恭良は懸命に気持ちを吐露した。
ボロボロと感情が瞳からもあふれて、母が心配そうに恭良をのぞき込む。
「沙稀とは話したの?」
首を横に振る。
「言えない」
思い出すのは、喫茶店で話したときの手のあたたかさ。あんなに幸せいっぱいに笑う沙稀を見ては、到底言えない。
何とか言い出したところで、やさしい沙稀のことだ。──恭良を責めることはしないだろう。
それに、沙稀を目の前にしては──別れたくなくなってしまう。
「私……産めない……」




