25ll宮 6:無我夢中
──俺は、何て声をかければよかったんだろう。
──どうして、こんなことになったんだろう。
瑠既は目の前の光景に戸惑いながらも口を開く。
「やめろよ!」
見ていられなくなって、父を止めた。
「沙稀が死んじまう!」
無我夢中で止めると、スッと父の力が抜けていった。瑠既は父から手を離し、沙稀に駆け寄る。
「大丈夫か! おい! ……沙稀ッ!」
何度も繰り返し呼びかける。
けれど、反応なく。心配で涙が込み上げる。そのせいで、瑠既の声は詰まった。
涙声になるのもお構いなしに、もう一度呼びかけようとする──と、浅い呼吸を感じ、すぐさま抱え上げる。
生きている──それだけの事実に安堵する。
「見てるこっちが痛ぇ……」
腕の中には、顔からいくつも血を出した沙稀がいる。
見ていたからわかる。
沙稀は、ずっと抵抗をしなかった。
まさか、こんな運命が待っていたなんて──瑠既は予想だにしていなかった。
卒業してからほどなくして、瑠既は沙稀の寮へ行ってみた。門前払いされる覚悟だったが、すぐに入室を許可され──呆気にとられそうになった。
部屋へ戻っていく沙稀の背を追い入室すれば、歓迎されるかのように飲み物が出される。ふと、気がゆるんであれこれと近況を話し──色々驚かれたり、からかわれたり、からかったり──幼少期の延長線のような時間を過ごした。
それから度々訪ね──いつの間にか、瑠既は沙稀との関係をうまく修復できたと思っていた。
ただ、沙稀は相変わらず実家に立ち寄ることはなく。仕事や人間関係に忙しいのだろうと、無理強いをしないようにした。それが最善で、色々と落ち着けば沙稀は実家に顔を出すようになると瑠既は思っていたのだ。
だが、それを後悔する日は、突然やってきた。
二十歳の誕生日が過ぎ、二ヶ月ほどが経った休日──本当に久しぶりに沙稀が帰ってきた。昼食を食べ一息つき、母が片付けを終えたころだ。
「あら、沙稀。何年ぶり?」
瑠既は『ようやくこの日がきたか』と、自身の選択を自負する。
しかし、それは一時だった。
寛いでいたところに舞い込んだ母の声に目を向けた途端、瑠既の自負は飛んでいく。
──ずい分、改まった格好をしているな。
言うなれば面接に行くような──そのくらい、沙稀は実家に来るのに相応しくない格好をしていた。
一方の沙稀は母と一言二言話し、瑠既には軽いあいさつを投げてきた。反射的に瑠既は同じように返したものの、横を通り過ぎていく沙稀の姿をぼんやりと見やる。
沙稀は足を止めず、父へと一直線。なぜか瑠既の鼓動はドクンドクンと高鳴った。
それは、予感だったのか。
嫌な予感ほど、当たるものだ。
瑠既は、信じがたいことばかりをしばらく見聞きしていく。
沙稀は父に向き合うなり──両膝と両手を床についた。
「恭良と、結婚させてください」
それはあまりにも突然で。現実味がなくて。
家族の誰もが言葉を失った。
けれど、更なる衝撃は次の言葉だ。
沙稀は床と額の差をグッと縮める。
「俺の子が……いるんです」
久しぶりに息子が帰ってきてこんなことを唐突に言われたら、頭が真っ白になって当然だろう。
瑠既だって耳を疑ったほどだ。
この家の一人娘は、まだ結婚できる年齢になっていない。いや、そもそも年齢が足りていないとか、足りているとか、そういう話ではないことだ。
現実的ではない──だから、瑠既は何も考えられなくなった。
父親であれば、誰もが頭に血が上ってもおかしくない事態。よりによって発言したのが実の息子なのだから、理性が吹っ飛んでも仕方ない。
状況だけ整理すれば、父が怒りに狂ったのは瑠既も納得できる。
「お前っ!」
床に頭をつけた沙稀の髪を父がつかんだ。
顔と顔を合わせ、今度は胸ぐらをつかんで立ち上がらせる。グッと睨む血走る眼は、言葉にならぬ思いの塊。
ゴッ、と鈍い音がしたと思えば、ドッと今度は床に何かが投げ付けられたような音がして。
脳内の処理が追いつかないまま瑠既が視線で音を辿れば、沙稀が頭を押さえ痛みに顔を歪めている。
罵声が聞こえた。父の激しい怒りだ。
次の瞬間にはドタドタと足音。
また、鈍い音。
あまりにも非現実的で、瑠既は呆然としてしまっていた。
だが、ぼんやりしている場合ではなかったと気づく。
父が沙稀に馬乗りになっている。ドカドカと不快な音が止まらない。
「やめて!」
母が必死に叫んでいる。
「親父!」
慌てて駆け付ける。父を引き離そうと後ろから抱えた。
「やめろよ! 沙稀が死んじまう!」
「こんなヤツ……」
引き離されまいと食いしばりながら父は抵抗するが、多少は正気を取り戻したようで。言ってはいけない言葉だと、続きを呑み込んだ様子だ。
ズルズルと引き離していくと、父の力が抜けていった。
瑠既が手を離すと父は力なさそうにその場で座り込み、肩で息をしている。
ばつが悪そうに、正面からは視線を逸らした。
沙稀はというと──動いていない。
ドキリとして近づけば顔はボコボコで、グッタリとしている。意識があるようには見えない。
「沙稀ッ!」
何度呼びかけても反応なく、心配で涙が込み上げる。もう手遅れかと思った刹那、浅いながらも呼吸を感じられた。
瑠既はすぐさま抱え上げる。腕の中の沙稀の顔からは、いくつも血が出ている。
「見てるこっちが痛ぇ……」
防御くらいすればよかったものを。
いや、沙稀のことだ。殴られる覚悟で帰ってきたんだろう。瑠既にはため息しか出ない。沙稀との関係性が変わってしまったと感じていた原因を、理解してしまったから。
──全部、恭良のせいだったのか。
やるせなさが思い出の分だけ重なってくる。どうして、気づけなかったのか。沙稀が大事だと思いながら、自身に対してしか目を向けられていなかった。
これで万が一、沙稀が息を引き取ってしまっていたらと思えばゾッとする。
「だ……大丈夫?」
泣きそうな震える声は、母だ。気丈に振る舞っているつもりだろう。瑠既はいつの間にか自身の瞳にも浮かんでいた涙をすばやく拭う。
「気絶してるけど、しばらくすれば起きると思う。……大丈夫だよ」
『とりあえず冷やそうか』と、涙を浮かべる母を気遣う。
抱えた沙稀をとなりの部屋へと移動する。畳の上におろすと、母が冷やす物を持ってきた。
母の肝はしっかりと据わっているのか、パタパタと布団を敷き始めた。いや、単純に息子の心配をしているだけで、会話の内容はすっ飛んでいるのかもしれない。
瑠既は沙稀を再び抱え、布団に寝かせる。
父は遠目から見ていたようだが、瑠既が振り返ると気にしていない素振りをした。
父は正しいだろう。ただ、瑠既にとって沙稀は特別な存在だ。どんなに理解できない言動をしようが、肩入れしてしまう。
どうしても沙稀を責める気にはなれない。こんな姿を見て、父を非道だと責めたくなる。
母が濡らしたタオルと、氷を袋に入れて持ってきた。
瑠既は受け取り、タオルで頬や口元の血を拭う。腫れたまぶたを冷やし、ひどく変形したものだと心を痛める。
何年も瑠既が抱えていた疑問の回答が、ハラハラと降っている。
全部、恭良が原因だった。
沙稀が家を出たのも。勉強を詰め込むように頑張ったのも。卒業を急いだのも。
同じ家にいるのが辛くなるくらい好きだったのかと思えば、ズシリと重しが乗ったかのように重い。呼吸しにくくなるほどの苦しさだ。
──どんだけ必死だったんだよ。
そんなもの、現状を見れば一目瞭然だ。
こんな状態になる方が、沙稀にはマシだったのだ。
痛くて痛くてたまらなくなる。
沙稀はきっと、体の痛みよりもずっと痛い思いをしてきたのだ。
やっと、やっと沙稀がわかったというのに、聞きたくない名を耳にした。母が沙稀の状態を口にし、近づく足音が聞こえる。
「行くな!」
「あなた!」
父の声と、それを制止する母の声。
足音は、止まらない。
「沙稀!」
姿を現したのは、いつの間にか『兄』を呼び捨てにするようになっていた、瑠既の毛嫌いする者だ。




