24■宮 5:昔々の風習
コールが耳元で鳴れば鼓動がドキドキと聞こえ、息苦しくなる。急激に口が渇き、頭が真っ白になってしまいそうになる。
いち、に、と数え、『出ないように』と『出てくれるように』と反する思いが交差する。出なければ、告げずに済む。だが、それは事を先送りするだけだ。
──出てくれ!
祈るような気持ちになったとき、コールが止んだ。代わりに、普段なら安心する声が『もしもし』と聞こえ、瑠既は息を呑む。
「もしもし、俺だけど」
どの口が言うと思っていたら、『瑠既様?』と耳元で囁かれる。
今更ながらにドキリとして、本当に恋心ではないのかと自問自答する。迷い、わからなくなりそうな気持ちを必死に捕まえた。
「あのさ、話があって……」
わざわざ電話をかけたのだから、それはそうだろうと言っていて呆れる。そのとき、今度は誄が息を呑んだと気づいた。
もしかしたら、言おうとしている内容と真逆のことを誄は思い浮かべたかもしれない。瑠既が誄の立場なら、間違いなくそうだろうと想像する。
勝手に期待を感じ、瑠既は尚更言いにくくなる。
「どうしましたか?」
こんなときでも誄は、瑠既が話しやすくなるような言葉をくれる。
知っている。
だから、瑠既にとっては居心地がいいのだ。
学校内ではわざと苗字に君付けをして誄は呼んでくれている。けれど、常日頃は先ほどのように呼んでくれるのが誄だ。
沙稀にも同じで、昔からの名残なのかもしれない。ただ、代々の立場を尊重してくれていると瑠既は感じている。
瑠既にとっては、自信を纏わせてくれる魔法のようもの。
「うん……こんなこと、誄ちゃんにしか相談できなくてさ」
予防線を張る。これだけでも誄の期待値をグッと下げられただろう。『私で力になれるなら』と、誄らしい言葉が返ってきた。
この心地よさに呑まれそうになる。決意が揺らぐ。ごまかして、このままの関係を維持したくなる。
しかし、それではいけない。
何とか踏みとどまり、瑠既は口を開く。
「気になる子が……いるんだ」
耳に当てる機械が静寂を鳴らした。故障したかのように。
だが、無のようなこの間は、有だ。壊れたような、時間が止まったかような感覚は、誄が停止しているからだ。
間をつぶすように、瑠既は浮かぶままを吐露する。
「ただ、どうしたらいいのか、どうしたいのかも、よくわかんないんだけどさ……」
すると、誄は瑠既が少なからず想像していたことを言った。
「私……明日からは待つのをやめますね」
『瑠既様の気になる人に誤解されたら大変ですもんね!』と、妙に明るい声がした。
それからも瑠既を励ますような、背を押すような──誄らしくない、多弁で多少早口な言葉がいくつも瑠既の耳を通過していく。
「ごめん」
思わず出た罪の意識は、誄の言葉を停止させ──泣き声に変わった。
『瑠既様のせいじゃないです』とか『応援します』とか、瑠既が聞き取れる範囲では、誄はそんなことを言っていた。
「誄ちゃん、ごめん!」
自身に都合のいい言葉しか出そうになくて、瑠既が言語化できるものはひとつしか見つけられなくて──繰り返し謝る。
ただし、その唯一の言葉でさえ、誄の想いを知っていたと自白するのと同等だった。
涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「切るね」
声を強く保てるよう、短く言って一方的に受話器を置く。
誄は、この電話が切れたら瑠既との縁が切れると思っていたのだろう。瑠既はそう察したから、切らなくてはと責任を被った。
自ら選んだことなのに、どうしてか涙が止まらない。
確かなことは、誄の存在は瑠既にとってすごく大きなものだったのだ。
これから先、誄に向ける顔はない。だが、それでも瑠既は平然と、通常運転を振る舞わなければと自身を奮い立たせる。
そうでなければ、誄を迷わせてしまうかもしれない。
傷付いたのは誄で、傷付けたのは瑠既なのだから。
卒業までは半年を切った。その半年弱をひとりで歩くと思えば、少々遠い道のりだ。
誄はちゃんと学校に行くだろうか。──そう考え、どれだけ自惚れていると笑う。
倭穏への想いが恋心かなんて、恐らく瑠既にはしばらくわからない。
それでいいと瑠既は納得する。
何年かが経ち、たとえ恋心ではなかったとしても、誄を自由にできるきっかけになったのだから。
何日かが経ったころ、椄箕に『別れたのか』とからかわれ、『そんなところだ』と返答したらひどく驚いていた。
付き合っていなかったとわざわざ言わなくていいと思ったのに、椄箕からしたらそれほど無関心なことでもなかったらしい。勢いに負けて、つい口が滑ってしまった。
更に数日経ち、瑠既は倭穏に話しかけてみた。たわいのないあいさつだったのに、輝いた目を向けられ、その日はすっかり瑠既が意識を囚われてしまった。
しかし、どれだけ見ていても高揚感を覚えることはない。だから、ついぼうっと見てしまっていたら、いつの間にか倭穏が目の前にいて、目の高さを合わせていた。
ふと視界が遮られた。
鼻に何かが当たったかと思ったら、今度は唇に触れていた。次の瞬間には、ちいさな破裂音が聞こえて──視界を遮る黒い物が、倭穏の髪の毛だと気づき、何が起こったのかを一瞬で認識する。
カッと顔が火を噴いたように熱くなる。
それを見た倭穏が、
「瑠既先輩は初めてじゃないでしょう?」
なんて笑うものだから、うっかり瑠既は否定してしまった。
「え……だって、誄先輩……」
「誄ちゃんは幼なじみなだけで、付き合ってたわけじゃ……」
瑠既以上に倭穏がうろたえれば、された側の方が冷静になっていく。
ただし、いささか瑠既は不機嫌だ。
瑠既は昔々にあったとされる鴻嫗城の仕来りをいくつか知っている。
その中のひとつに、『婚約するときに初めて唇を重ねる』というものがあった。瑠既もいつか結婚したいと思う相手ができたら、そんな昔々の風習に倣ってみようかと密かに思っていた。
なのに、ささやかな思いが崩され、ガラガラと音を立てている。
「責任、取ってもらおうか」
「えええええええ?」
倭穏にとっては、そんなに大事かと思いもするだろう。ただ、都合のいい事態でもあるわけで。
「いいんですか? 私で」
すぐに嬉々とした態度に変わった倭穏を、瑠既はたしなめる。
「お前、まだ十二歳だろ?」
「年齢って関係ありますか?」
「大いにあるね」
サラリと言えば、ションボリと倭穏が首を垂らす。
「だから、あと何年か経って……それからだ」
何年もあとだと言ったのに、倭穏の顔にはパッと笑顔が咲いた。
「可能性があるってことですか?」
そんな風に、押し引きは続き──結局、瑠既は卒業までの間、倭穏となるべく過ごすようになる。
いや、卒業してからも。
卒業式が終わってから、瑠既が余韻に浸って同級生や校舎を見ていると倭穏が現れた。
倭穏は瑠既を見るなり泣き出して、目を真っ赤に腫らし寂しがる。
だから、
「二度と会えないわけじゃない」
と、無意識で連絡先を渡していた。
黒い瞳がジッと瑠既を見つめる。口は何度も歪んで、鼻は呼吸が苦しそうで、ひどい有様だ。それなのに、嫌だとまったく思えないのはなぜか。
「今度、好きな場所に連れていくから……いい加減泣きやめ」
不器用に言っても倭穏はパッと涙を拭き、上機嫌になる。
倭穏はいつもこうだ。瑠既の一言でコロコロと機嫌が変わる。
こんな態度をとられて、瑠既は悪い気がしない。
恭良と同じ六歳差だ。
だから、倭穏が妹だったらかわいがれたかもしれないと想像する。まだまだ恋愛対象の年齢ではない。
ちいさなつぼみのような想いを抱えている自覚は、ある。だが、瑠既はその想いをしばらく膨らまそうとも、咲かせようとも思わない。
何年か経ち、瑠既が想いを育てようとしたとして。
倭穏が満開にしている想いが、そのときには散ってしまっているかもしれない。
もし、そうなら──縛り続けようとは思わない。
今、制限をかけているのは瑠既だ。だから、将来のことまで制限するつもりはない。
けれど、もし、時期が満ちて瑠既の想いを咲かすことができたなら──今度こそ、瑠既は心つかまれた風習を再現しようと密かな願いを胸に宿す。
そんなときがくるまでは、しばらく年の離れた友人のような、そんな存在でいれたらいいと勝手に願っているけれど。
おだやかな時間が過ぎていき、瑠既は平穏が続くと思っていた。
二十歳になり、これまで見ていた世界が崩れる。前進していたと思っていたのに、停滞していただけだった。
そうして、最悪な方向に運命の舵は切られていたのだ。
瑠既は『IF』を繰り返す。
どのくらい巻き戻せば、『普通』に戻れただろうか。
どのくらい巻き戻せば──。
そんな日は、あったのか。




