【21】切なる願い(2)
嫌がって避けていたのが嘘かのように、沙稀はジッと瑠既を見て近づく。
「お前が今の俺に不満があるように、俺にも今のお前に不満がある」
瑠既を止めようとしている大臣の手をどけながら、今度は大臣に言う。
「忒畝から話は聞いた。全面協力すると告げてある。話は済んだ」
そして再び、瑠既を見る。その眼光は鋭い。
「お前だろうと、俺の前で恭姫を侮辱するとはいい度胸だ。来い」
沙稀は瑠既に有無を言わさず連れ出す。廊下からは、ツカツカという音が聞こえ、それは次第に遠のいていった。
「大変申し訳ありません。恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
大臣は深々と詫びる。忒畝は両手を顔の前で左右に細かく振って、謙遜する。
「いえ、僕の方こそ。急ぎだからといって、連絡のひとつもなしに来てしまい、申し訳ありません」
思いの外、沙稀が理解を示してくれ、協力するとまで言ってくれたのは忒畝にはありがたいことだった。この間のことがある。前回の感じのままで話しをすれば、互いに探り合いは避けられないと思っていた。
「後ほど詳細は聞いておきます。今は理解なきことをお許しください。長旅の疲れもあることでしょう。お使いいただく部屋を案内いたします」
悠穂の手がかりは、何ひとつ見つかっていない。ただ、心強い味方を得た今は、安堵してもいいように思えた。
「お言葉に甘えます」
そう言って、大事なことを忘れていたと気づく。
「実は……誰にも言わずにこちらに来てしまったので、連絡をさせていただけるとありがたいのですが」
忒畝は苦笑いを浮かべる。
「よほど……お急ぎだったのですね。かしりました。お任せください」
大臣は冷静さを取り戻し、日頃のようにテキパキと手筈を整える。一方で、そこまでの急用が気にかかった。忒畝が独断で、誰にも告げずに克主研究所を発っていたとは。
大臣はかすかに嫌な予感を覚えた。
忒畝は用意された個室で、さっそく受話器を取る。普段使用している内線番号を押したが、コールは鳴らない。
「外線だった」
当たり前のことを再確認し、普段かけない番号を感覚だけで押す。すると、今度はきちんとコールが鳴り、
「はい、第二代理、充忠」
と、いつもの声が聞こえる。
「第一代理、忒畝です」
正しくは、すでに忒畝は君主であり、充忠が第一代理に繰り上がっている。もっとも、現在第二代理はいないため、第一と言う必要もないが。
今日が通常の一日だったならば、そう言った会話もあったのだろう。だが、今は──。
「バカヤロー!」
怒鳴り声だけが返ってきた。尚も充忠の攻撃は続く。
「悠穂ちゃんがいないと言ったあとに、お前までいなくなって……俺らがどんだけ心配すんのかくらい、わかるだろぉが!」
「ごめん。悪かった。そうだよね。そう思う」
忒畝は充忠の不満をきちんと受け止める。しかし、言わなくていい一言が、つい出てしまった。
「ただ、それどころじゃなかったんだよ」
これでは、充忠の怒りは大人しく静まらない。
「それどころじゃない、だぁ? いつから、んなヤツになったんだよ、お前は!」
「じゃあ、昨日から」
これは、純粋に親友との会話を忒畝が楽しんでいるだけだ。悪気はない。そして、ふしぎなもので、親友にはそれが伝わる。結果、充忠の怒りゲージは下降していく。
「バカヤロ……って、何だよ、馨民」
じゃれ合いは中断された。
忒畝が電話口で耳を澄ますと、
「話が進まないなら、変わってよ」
と、馨民の声が聞こえ、半ば強制的に充忠から受話器を奪ったのがわかる。
「もしもし、忒畝? 今の充忠の怒鳴り声で、耳までバカにならなかった?」
彼女の声は淡々としている。思わず、忒畝は笑ってしまう。電話という距離感ではないようで。
その笑い声に、馨民の声はやわらぐ。
「元気そうならいいわ。忒畝がそこまで急ぐ用事だったのよね。話しは帰ってきてから聞くわ。ただし、話しの内容が私たちの心配した気持ちと割が合わなかったときには、私も怒るわよ」
彼女の理解ある言葉には、何度も救われてきた。今もそのカウントがカチリと一回更新される。忒畝は改めて、馨民の存在は大きいと実感する。
「わかった。でも、すぐには帰れないかもしれない。今は鴻嫗城にいる。悠穂を連れて帰りたいけど、手がかりはまだないんだ。また、帰るころに連絡を入れるよ」
「待ってるわ。忒畝の仕事、それまで充忠に任せておくわね」
これは馨民の個人的な独断だ。君主の助手としての判断ではない。
「ね、君主代理」
「俺の身が持つ程度なら」
受話器の外のやり取りが聞こえる。
忒畝が困難に陥り、克主研究所を突然不在にしても、しっかりと支えてくれる人たちがいる。その事実に、忒畝の心はあたたかくなる。決して、独りではないと。
「君主が安心して帰ってこられるようにしておくわ。それが私たちの仕事だもの。頑張ってね、忒畝」
まるで忒畝の現状を把握しているかのような激励。それでも、馨民も充忠も、忒畝の向かい合っている困難をまったく知らない。心苦しさは、言葉に出る。
「うん、ごめんね」
「うん。じゃぁ……」
「馨民」
そのまま電話を切ろうとした彼女を忒畝は引き止める。
「ん?」
傾けられた耳に、事実を打ち明けられたらどんなに楽になるのか。どんなに後ろめたさが消えるのか。
楔のように繋がっている女悪神の血筋のことを打ち明けられないのは、親友を疑っているからではない。たぶん、このふたりなら特別視をせず、今のままでいてくれる。一緒になって支えてくれる。──それでも、できれば知られたくない。知られてしまえば、気にしてしまう弱さが己の中にあるから。
「ありがとう」
忒畝の想いを呑み込んだ言葉に、すぐに声は返ってこなかった。
微妙な間があいた。
こんなとき、馨民の頬は少し赤くなっている。無言のまま伝わってくる、想い。
忒畝は言葉に詰まる。馨民の想いを気づいていないわけではない。そして、忒畝も、想いに応えたくないわけではない。応えてはいけないと、できる限り普通にしているだけだ。大切な彼女の願いを知っているから。
すると、
「いいえ」
と、強がる馨民の声が聞こえた。馨民は冷静を装っていた。忒畝は何も気づかなかったようにしなければと言葉を選ぶ。
「充忠にも伝えて」
「うん」
上機嫌な声が返ってくる。──きっと、彼女は照れたのを気づかれなかったと安心している。
「早いけど、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
『早いけど』と付け加えてでも、日常の何気ないあいさつを忒畝と重ねていくことが、馨民の幸せだ。そんなささやかなことを幸せと感じて大切にする馨民だからこそ、忒畝は──。
膨れ上がりそうになる想いに気をとられないように、そっと受話器を耳から離し、静かに置く。そうして、ふと思い出してしまう。十四歳のとき、諦めて手離した、もうひとつの夢を。
六年も経ったというのに、忒畝は今でも思う。理想の家族を築くのに、彼女以上の完璧な相手はいないと。
幼いころから描き続けた夢だった。自らの宿命を知り、理解して受け止めたからこそ、手離した夢なのに、諦めたはずなのに、心にうずく想いがその決意を揺らす。彼女もまた、忒畝と同じ理想を描いて、同じように見てくれていたから。
忒畝が決意した十四歳のとき、馨民は想いを告げてきた。その日は本来、忒畝が気持ちを告げようとしていた前日だったけれど、想いを告げないと決めた日の方が早かった。
忒畝はきっぱりと断った。彼女を道連れにしたくなかったから。長年同じように理想を描いてきた彼女には、叶えてほしかったから。
あの一回切りだ。以降、彼女が想いを口にすることはない。ただ、時折感じる仕草と間が、まだ互いに変わっていないと思ってしまう。
──勘違いだといい。自惚れているだけだといい。
忒畝はそう思い、あふれそうになる言葉を呑み込んで、決して言葉にも仕草にもしない。