23■宮 4:大間違い
瑠既は停滞していた。
沙稀が二年も先に卒業をして、己も最終学年になったというのに。未だ進路を見出せずにいる。
瑠既が立ち止まったままでも、時間は刻々と流れ──同じような日が過ぎていくだけのような感覚に陥っていた。
そんなある日のこと。
「瑠既先輩!」
研究授業が終わり、帰ろうと靴を履き替えた直後だ。
「好きです!」
『瑠既先輩』と呼び止められただけでも驚いたのに、瑠既にとっては寝耳に水だった。
「あ……わ、私、瑠既先輩と同じ研究授業で……」
「知ってる」
確かに知っている。世の規則を知らず、影ながら瑠既を名で呼ぶ後輩がいるのは耳に入っていた。
ただ、面と向かって呼ばれたことはない。だから、勝手に言っているだけだと瑠既は放っておいたのだ。
その呼び名で、まさか呼び止められる日がくるとは思っていなかった。それに、唐突に感情をぶつけられるとも。
「あの……わ、倭穏と、いいます……」
「うん、知ってる」
あまりにも倭穏がワタワタとしているものだから、瑠既は知っているか否かしか返答をできなかった。
黒い髪をひとつに丸めているのに、毛先まで丸めず長く垂らしている。そんな独特な髪型なら印象深く、瑠既は一目見て覚えていたのだ。
活発で明るい女の子──と言えばいい表現で、のびのびしていると言っても言い表現で。はっきり言えば、自由奔放でお転婆な印象がある。
瑠既よりもずい分とちいさくて、いくつなのかと椄箕に聞いてみたら、妹と同い年だった。
だから自由に呼ばせておいた──というのは理由にならないと瑠既自身も思うのに、他の理由が思いつかない。
「か、彼女さんが、いるのは……知っています。でも、どうしても伝えたくて……」
黒くて大きな瞳が瑠既を見上げ──沈んでいった。
今年、瑠既は卒業する。最後の年だ。だから、『どうしても』伝えたかったという意味だろう。
そう噛み砕いてみても、瑠既にはどこか腑に落ちなかった。
「ありがと」
スッと出た言葉に、パッと倭穏の顔が明るくなる。
満面の笑みを浮かべた倭穏は、
「じゃあ、瑠既先輩。卒業まで『瑠既先輩』って呼ばせてください!」
『そんなことなら』と、言おうとした。
だが、声にならなかった。
それなのに、倭穏は一方的に喜んで、はしゃいだ様子で──瑠既の前から姿を消した。
倭穏が姿を消したあと、どうしてだか涙がじんわりと浮かんできた。
誰かを好きでいる、好きだと伝えることは、あんなにも浮かれてしまうことだったのだ。
胸が痛んだ。
はっきりと気持ちを自覚した。
──俺は、誄ちゃんのことを……。
好きではない。そう、くっきりと浮かび上がってしまった。
知ってしまったら、これまでどんなにひどいことをしていたのかと痛みが増してくる。
何をしたわけでもない。
昔からの付き合いで、手を握ったことはある。ただ、それは沙稀だって一緒だ。
家の前で誄が待っていたから、一緒に通っていただけのことで。沙稀が早く家を出るようになってからも、それを瑠既も誄も知らなかっただけで。ふたりしかいなかったから、ふたりで行くようになっただけだ。
それが、ずっと変わらなかっただけだった。
瑠既にとってはそうなのに、誄にとっては──同じではないと、感じたことがないと言い切れるかと言えば嘘になる。
幼なじみの関係が壊れるのを恐れて言わなかったわけではない。ただ、誄はどうだっただろう。
そんなこと、考えるまでもない。
好きだと言われなかった。だから、あえて探らなかった。
でも、瑠既が誄を好きだったなら──とっくに踏み込んでいたはずだ。
好意を持ちながら伝えてこないのだから、気づかない方がいいのだろうとふんでいた。
大間違いだ。
はっきりとしない態度をとり続けていただけだ。
好きでもないのに踏み入れば、気がないと伝えれば、関係を壊すと明確で。『幼なじみ』でいたいと選んだのだ。己のことしか考えずに。
都合のいいようにしてきただけだと痛感する。
彼女がいると公にされていれば、余計な悩みがなくていい。遠巻きにされる方がどれだけ楽か。
多分な気を遣わずに済む。その楽さを取ったにすぎない。
たったひとりを深く傷付ける事実からは目を背けて──。
──誰かに好かれるような人間じゃない。
嫌なところほど知っているから、瑠既は自身をそう思う。
付けが回ってきた。ようやく目を向けたのだから、精算をしなくてはいけない。
ザワザワと胸が騒ぐ。
倭穏を放っておいたのは、あの陽気さを見ていたいと心の片隅で感じていたからだ。──そんな思いにも、瑠既は目を背けていた。
これが異性を想うものなのかはわからない。ただ、特別なもののような気がしている。
言わなくてはいけない。誄に。
向き合わなくてはいけない。これからは。
──何て言い出そうか。
気になる人ができたと言えば、誄の気持ちに応えられないと伝えられるだろうか。
この想いが好意になる前に誄に告げられれば、まだ不誠実にはならないだろうか。
どう行動しようが誄を傷付けない選択肢はない。今更、傷付けたくなかったなんて言い訳するつもりはない。利用していたのは事実だ。
──嫌われちまうかな。
過ごしてきた時間が長い分、瑠既には親友のような感覚がある。けれど、それは瑠既の一方的なものだと理解はしている。
相手の恋心を踏みにじっておいて、親友でいてほしいとは言えない。
これまで散々居心地をよくしてもらっていたのは、誄に瑠既への恋心があったからだ。
沙稀が家を出て卒業をして、誄まで離れていくのは瑠既には辛い。だが、瑠既より辛い想いをするのは、誄なのだ。
それが嫌なら、今のまま引き止め──いや、誄を恋愛感情で見ることはないと、もう答えは出てしまった。
──俺の勘違いならいいのに。
それも都合がいいと瑠既は苦笑いする。
明日の朝になれば、また誄は家の前で待っているだろう。ただ、朝行くときに泣かせるわけにはいかない。そのくらいの気は遣うべきだ。
──帰りに寄るしかないか。
まさか部屋に上がるわけにも、部屋に誘うわけにもいかないと場所に頭を悩ませる。
ふと、頭を過ったのは付属学校の電話。緊急用にいくつかの電話が校内には設置されている。
浮かぶのは誄の自宅の電話番号。幼少期から何度もかけたことがあれば、覚えようとしていなくても覚えている。
泣かせてしまうなら、外より自宅の方がいい──そんな思いが後押しして、瑠既は校内の電話へと向かう。なるべく人が立ち寄らなさそうな、噂にならず誄を傷付けないような場所へと。
──泣き顔を見たら、抱き締めちまうだろうな。
電話という手段が最善とはいえないが、抱き締めるのを防げる方がいいだろう。
人気を遠ざかりながら歩けば、誄の笑顔がどんどん浮かんでくる。最近の控えめな笑みから、幼少期の無邪気な笑顔まで年代まばらにいくつも、いくつも。
泣き顔を思い浮かべられないほど、誄は昔からよく笑っている子だった。怒った顔や不満な顔も。見たことがないかのように思い出せない。
いつでも見てきた眩しい笑顔に、心が痛くなる。
入学試験の緊張も、合否発表の不安も、妹への不満も、進級する度に抱えるストレスも、瑠既は隠しながらも抱えていた。ひた隠しにしたつもりでも、誄は察し、どんなときだって輝かしい笑顔で吹き飛ばしてくれた。
瑠既は幼いころから人見知りで、引っ込み思案で、臆病者で──沙稀がいないときでも誄がいつもいてくれたからこそ、虚勢を張ってこられた。
心許ないときは誄が手を握って、時には引っ張ってもくれた。男らしくありたいと強くもなれたし、守りたいと行動もできた。
それらは家族を想う気持ちと類似していて、決して恋心には変わらなかったけれど。誄を失うと思えば、心に穴が空くほど寂しい。ただ、もう、甘えてばかりもいられない。──そんな年齢だ。
電話を目前にして、体が強ばる。受話器を持とうとする手が、震えた。
恐怖だ。誄を失う。
重圧だ。誄を傷付ける。
──覚悟しろ。これ以上、誄ちゃんを……大事な人を傷付けないために。
おもむろに受話器を持ち上げ、瑠既は番号を押していく。




