20▶弟 8:望む言葉
羅凍は目を疑った。
「え」
足早に最初に戻り、人が散っていく中掲示板を食い入るように見て──また最後まで見て立ち尽くす。
どんなに見ても、沙稀の名を見つけられない。けれど、留年したとは思えない。
──あり得ない。
ない。絶対に。そう言い切れる。
一年間そばにいて、その賢さにも触れてきた。だから、沙稀に限って留年はあり得ない。
絶句する。
残る可能性が、ひとつあるからだ。
「羅凍?」
哀萩の声に足を止める。
「うん、一緒だったね。それはめちゃくちゃうれしい」
うれしいときの表情でも、声のトーンでもないと自覚しても、どうにも繕えない。責めたくないが、心の嘆きを聞かないことにもできない。
ギュッと強く手が握られた。
「見に行くんでしょ? 私も行く」
首肯する。寄り添ってくれる哀萩を、よりかけがえなく感じる。
一学年上の──最上学年のクラス表を見に行けば、沙稀の名をすぐに見つけた。
「飛び級で、特進級なんて……」
どれだけ遠くに行ってしまったのかと胸が引き裂かれそうになる。
「頑張ったんだね」
哀萩が前向きな発言をした。
「だって、そうでしょ。私だったら目標にしても絶対に届かないと思うもん」
『羅凍なら行けたかもしれないけど』なんて笑う哀萩は、何てかわいらしく心和やかにしてくれるのか。
哀萩のお陰で、負の感情が浄化された。
「そうだね……。この結果を出そうとするなら、そう易々と言えないか!」
「おめでとうって言いに行こ」
「うん」
今度は羅凍がキュッと手を握り返す。
特進級のクラスは成績順だと聞いたことがある。本当なら、掲示板と同じように沙稀は廊下側の一番前の席だ。
一学年上の特進級のクラスに、ふたりで顔をのぞかせれば予想した通りの場所に沙稀は座っていた。
沙稀はふたりを見るなり目を見開き、ガタリと立ち上がった。それを見て、羅凍の口角が上がる。
「おめでとう」
羅凍と哀萩が口を揃えて言う。
沙稀のこわばっていた表情が苦笑いに変化した。
「ありがとう」
「言ってくれたら、お祝いの準備もできたんだけど」
「そうよ、もし飛び級ができなかった~ってなったって、『また楽しい一年を送ろう』ってパーティーになったわ」
『ねぇ』とふたりが顔を見合わせれば、
「ごめん」
と、沙稀が言う。ただ、それはそれでふたりの望む言葉でもない。
「最後の一年だと思えば寂しいけど」
「研究授業には来るんでしょう?」
『うん』と沙稀がおだやかに返事をする。
「それに、特進級で卒業なら、職員見習いで学校に残る……って、ことでいいの?」
特進級で卒業した者は、特別に面接なしで克主病院兼、付属学校の希望職に就ける。ただし、面接を経て勤める者と同様、数ヶ月間の見習い期間を経るわけだ。
羅凍が聞けば、『そうだね』と沙稀は答えた。
これまでと同じように研究授業ではともに過ごし、離れた分、学校後に遊ぶことも増えた。
羅凍との絆は変わらなかったはずなのに、いや、羅凍はより深く親しくなれた数ヶ月だったと思っていたのに。
沙稀は忽然と研究授業に来なくなった。
あの山男のような先生に尋ねると、数週間前に異動届けが出されたらしい。
羅凍は授業中にも関わらず、寮へと駆けていた。訪ねると、居留守せず扉が開く。まるで羅凍が来ると知っていたかのように、
「どうぞ」
と招かれた。
「お邪魔します」
一言添えて、羅凍は部屋へ上がる。
約束していたかのように、沙稀は手際よくお茶を出してきた。
言いたい言葉がいくつも浮かぶ。その中で、羅凍は攻撃的な言葉以外を選ぶことにした。
「勉強、大変なの?」
聞かなくても、本当は知っている。沙稀に限ってそんなことはない。
それなのに。
「それなりにね」
肯定とも取れる言葉が返ってきた。
羅凍は沙稀がわからなくなる。柔軟なようで、鉄壁な隔たりを感じる。
「パティシエになろうかと思って、異動したんだ」
『古武道は楽しかったんだけどね』と、本音とも建前とも受け取れる言葉を呟いた。
沙稀にとっては決定事項であって、相談することではなかったのだ。
恐らく、飛び級すると決めたときも──そんな羅凍の沈んだ思考は、表情に表れていたのか。
「飛び級しようか、迷ったよ」
沙稀がポソリと言った。
「え?」
「でも、羅凍に相談したら……今度は羅凍が悩んでしまったでしょう?」
言われた通りだ。
特進級を目指すとして、頑張れば羅凍なら届いたかもしれない。けれど、哀萩は飛び級自体が難しかっただろう。それに、環境を変えない方が哀萩にいいと思っていた。
羅凍に哀萩は手離せない。沙稀もそれを理解していたのだろう。
「余計な悩みを、増やしたくなかった」
気遣いに心が痛む。沙稀は羅凍を思い、ひとりで悩む方を選んでいたのだ。
「楽しい一年だったよ。ありがとう」
「勝手に俺たちのこと、終わりにしないで」
感情のままに羅凍は言葉が出ていた。そうして、目を丸くする沙稀に、またぶつける。
「友達だろ? 俺たち。これからは、愚痴でも悩みでも共有していけばいいじゃん」
沙稀は固まったように動かず。更に羅凍は続ける。
「知らないかもしれないけど、哀萩って料理苦手なんだよね。大好きな人の手料理、俺も人並みに食べたいと思うし。俺たちも異動するかも」
感情的に言ったのに、なぜか沙稀は楽しそうに大笑いしていた。
後日、羅凍は哀萩に研究授業を料理に異動しないかと相談する。
「哀萩の手料理が食べたい」
羅凍が率直に言えば、哀萩は赤面しつつ、
「せ、生活に役立つって言えば、お母さんを説得できるかも」
と言ってくれた。
「それに、古武道は好きでしていたわけでもないし……」
とも。
後日、哀萩は無事に説得できたと言い、ふたりも研究授業の異動届けを出す。
「本当に来たんだ」
沙稀は驚きながらも、うれしそうで。羅凍は来てよかったと安堵した。
料理を始めてみれば、想像以上に奥深く。失敗しても、うまくいっても面白くもあり。
沙稀がパティシエになった姿を想像して、格好いいと羅凍は憧れ、いつの間にか同じ道を目指すようになっていた。
哀萩が凪裟を誘っていたらしく、研究授業に凪裟もきた。
以前と同じように、また四人で楽しく過ごしていた……と、思っていたのに。
沙稀の卒業式に羅凍が駆け付けると、
「じゃあ」
と、これまでの二年間を白紙に戻したかのように沙稀はサラリと別れを告げた。
それでも、また会えると羅凍は信じた。
卒業式の翌日、沙稀に数日前に振られたと凪裟が言った。
「そっか」
「うん」
四人でずっと仲良くできればと思っていただけに羅凍もショックだったが、こればかりは仕方ない。
「好きな人がいるって……言ってた」
「そうなんだ」
誰だろうと考えてみても相手は浮かばない。それに、そんな素振りは感じなかったから、言い訳だろうと解釈する。
沙稀があんなに冷たい態度をとったのは、凪裟を振り四人の関係性に変化が生じたからなのか。
羅凍は納得しがたい。
進級したときと同じだ。
分かち合えたと思っていたのに、戻ってしまった。
沙稀のことを知っていたようで、これまで何も知らなかったのかも知れない。
羅凍が沙稀を知るのは、これから数年後のことになる。




