15▶弟 6:今度
──ずるいよなぁ……。
罪悪感にかられるが、哀萩の魅力には適わない。かわいいと永遠に眺めていられるし、声を聞き続けたいと願っている。
勉強会のあと夕飯を食べてから送っていくのが習慣になった。夜道を歩き、別れ際では毎回離したくない気持ちでいっぱいになる。
「今日もありがとうね」
勉強を教えてもらったのは羅凍だというのに、哀萩はこう言うのだ。
「こちらこそ」
大好きな人についたちいさな嘘が、大きくなっていく。苦しさが膨らむ。見送る辛さと二重に、羅凍を苦しめる。
スルリと手を離した哀萩は、『それじゃ』と歩いていき徐々にちいさくなっていく。羅凍は姿が見えなくなるまで見送り、ふうと息を吐いてトボトボと帰路につく。
やがて試験の日を迎え、問題を前にわざと間違えるわけにもいかず。数日後に戻ってきた答案用紙は、これまでと同様にどれも上出来だった。
帰りに哀萩と会うと、楽しげに結果を聞かれた。教えてもらっていた手前、正直に答えるしかなく。曖昧に『よかった』と答えたが、哀萩には喜びだったのだろう。
「交換しよ」
羅凍の想定外のことを言うなり、自らの答案用紙を差し出す。これには、応じないわけにもいかず。
それなりにできるとバレてしまった。
『哀萩のお陰で』と言おうとした──が、教えてもらった範囲も哀萩よりできてしまっている。予定していた言葉は言えないと口をつぐんだ。
他の言い訳を考えているうちに、哀萩はすっかり黙っている。呆然としていると例えても過言ではない。
「ごめん。哀萩と……少しでも長く、一緒にいたかった」
取り繕う言葉のひとつも言えず、本音しか出てこない。
パッと上がった視線にビクリとする。けれど、なぜか嫌悪を含む気持ちは伝わってこない。かえって信じられないものを見たと、感動している様子。
だから羅凍は、思い悩んでいた提案を口にできた。
「今度は、哀萩の家に行ってもいい?」
見開かれた目が、更に大きく開かれる。だが、まぶたがすぐに落ちてきて、哀萩の首まで下がっていった。
沈黙がふたりを包む。間を繋ぎたいと必死に考えても、気の利くような言葉は浮かばない。
──このままじゃ、拒否されるかもしれない。
結果的に嘘をついていた。嫌われても仕方ないことをしてしまった。自覚はある。
顔が引きつる感覚があるのに止められず。無理な笑顔をしながら視線をあてなく泳がせていると、
「うん」
と、ポソリと聞こえた。
『本当に?』と言いたくなったが言葉を呑む。こんなにうれしいことが嘘になったら耐えられない。
こうして約束を取り付けた羅凍は、後日、哀萩の家へ行く。
哀萩の家は、いつも別れていた場所から目と鼻の先にある集合住宅だった。
案内されるがまま、集合住宅に初めて入っていく。
驚いたのは玄関を開けた先が教室の一室よりも狭いと感じたこと。そういえば、哀萩は母とふたり暮らしだと言っていた。
──俺は恵まれた環境で育ってきたのかもしれない。
これまで意識していなかったことが頭を過る。
静まり返った一室に足を踏み入れ、緊張する。羅凍の家と違い、誰もいない。完全なふたりだけの空間だ。
勉強を教えるのに身が入るだろうか──自問自答をするが、胸を張れる自信が微塵も湧いてこない。
背後でカチャリと鍵の閉まる音がして、緊張感が一気に高まる。
「ごめんね、狭くて」
「ううん」
首を横に振るが、哀萩は苦笑いして羅凍を通過していく。
「こっち。座って」
玄関から見えるキッチンのすぐ前の、ダイニングテーブルに誘導された。来客は日頃あまりないのだろう。ふたり分のちいさなテーブルだ。
いつもはここで哀萩がひとり勉強をしていたのだろうか。その姿を浮かべ、なぜか少し胸が痛んだ。
「ありがとう」
鞄を床に置き、壁にもたれかけさせる。教科書とノートを取り出し、テーブルに広げれば隙間はわずかだ。
視界を上げれば哀萩の後ろ姿がある。ちいさなやかんを火にかけ、お茶を用意しているようだ。
ただ見とれていたはずなのに視界が背中から下がった。
ふっくらと丸みを帯びるお尻、更にはスカートの裾が足との境でヒラヒラと動いている。明るさが多少変化して、その明暗で止まり──いけないと、視界を手元に戻す。
危ない。
以前自室でふたりきりになったときとは、危うさが格段に違う。今は完全にふたりきりで、玄関の鍵はキッチリ閉められている。
やましい気持ちを戒め、手を伸ばし抱き締めたくなった気持ちを自制する。
「お待たせ」
コトリとカップが置かれたが、半分上の空だ。
「いや、全然」
むしろ、もっと待った方が冷静になれたかもしれない。『いただきます』とカップに手を伸ばし一口含む。
哀萩が入れてくれたと思えば、感動するくらいおいしい。
『うまい』と言えば、『大げさ』と哀萩が笑った。かわいい笑顔に見とれ妙な間が生じる。
「あ……え……っと……」
冷静を装っていたのに、哀萩が椅子をとなりに移動させてきて明らかな動揺を露呈してしまった。
対面だと文字が真逆になるからだろう。だからと反対向きにすれば、羅凍が教えにくい──のだけれど。
ドキドキと鼓動が高鳴るのを止めない。
静まれと願っても、哀萩がこんなにも近くにいたら無茶というもの。
歓喜と更なる欲求と、理性の要求がせめぎ合う。
「熱いの、苦手?」
羅凍の緊張が伝わっていないのか、場を取り繕おうとしているのか。哀萩が斜め方向の質問をしてきた。
「ううん、大丈夫」
「そっか」
やさしい笑みがキラキラと輝いて見えた。初めて見たときのように、彼女だけが世界に祝福された存在のように見え──光へ、羅凍の体が動いた。
座る場所を案内されてから教科書とノートを開いたが、そもそも勉強が目的だと約束して来たわけではなかった。
それでも、彼女は家に来ていいと羅凍に言った。
これは、羅凍の都合のいい解釈だ。
彼女に飛躍だと指摘されても、羅凍は否定しない。そうだと、己のせいにする。
ぎこちないのは不慣れなせいで。緊張のせいで。彼女が大事だからで。触れ合う感覚のすべてが新鮮で、ひんやりとした感触は、じっとりとした熱をじんわりと伝えた。
「あの……」
「羅凍って呼んで。敬称も、いらないから」
戸惑う哀萩の声を、これまでずっと願っていたことで消していく。
名前呼びでいいと、そうしてほしいとずっと前に言ったのに、哀萩は一向に『羅凍』と呼んではくれない。
真剣な想いだとどうしたら伝わるのか、その一心で羅凍は口づけを注ぐ。
合間で絞り出すような、囁きのような呼びかけをされた。
心がようやく繋がったかのような喜びは、感じたことのない多幸感であふれる。溺れるように愛しい人を呼び、愛しい人に呼ばれるひとときを繰り返す。
沈んでいるようなのに、浮遊感がどことなくある。何ともふしぎな感覚に陥った。
言葉を忘れたかのように、互いに何も言えなくなっている。しかし、哀萩の方が断然大人で、現実的だったのだろう。
『授業で配布された』と渡された物を見て、急激に幼稚さを思い知らされた。過剰に恥ずかしくなったが、哀萩が受け入れてくれる証拠でもある。急激な喜びを噛み締めたり、また恥ずかしくなったり、とにかく羅凍の感情は目まぐるしく変化した。
どのくらいが経っただろうか。
「そろそろ、お母さんが帰ってきちゃう」
色気も愛もない言葉で現実に引き戻された羅凍は、慌てて体を離す。ドギマギと周囲を見渡し、
「俺も一緒に片付ける」
と錯乱めいた返答をする。
哀萩はクスリと笑い、『大丈夫』と言った。
夢心地の羅凍を置き去りに、哀萩はどんどん現実へと戻っていく。つられて羅凍も現実へと戻ろうとするが、どうも無理に目覚めたときのように頭がすぐには働かない。
結局、哀萩の真似をして身支度を調え、促されるがまま教科書とノートを鞄に入れて帰り支度をする。
どうやら哀萩は、母に羅凍を会わせる気はないらしい。
玄関まで向かって靴を履いたとき、心がえぐられた気がした。
「あの……さ、また、会ってくれる? 今度はうちで……じゃなくても、勉強じゃなくても、どっか遊びに行ったりさ……」
振り返ってどうにかデートの約束をこぎつけようとすると、
「ありがとう。うれしい」
哀萩がにっこりと笑ってくれた。
だから羅凍は、幸せでいっぱいになって頬がゆるんだ。笑顔で玄関をあとにして、数歩離れたところから集合住宅を見て──また口角が上がった。
哀萩への異変を感じたのは、翌日の研究授業が終わったあとだった。
これまでのように一緒に帰ろうとしたが、
「今日は急ぐから」
と、走っていかれてしまった。
翌日の朝、哀萩におはようと声をかける。返事は返ってきたが、視線を外された。
それが一日中続けば、さすがの羅凍もおかしいと口を開く。
「俺のこと、避けてない?」




