14▶弟 5:接触2
「鍵……ないんだよね?」
耳元で聞こえ、理解する。頬に触れたのは、哀萩の唇だ。それと同時に、哀萩の発言の真意にも気づく。居間と自室を仕切るのは二枚の引き戸。扉と違い、鍵がない。
それに引き戸を意識してみれば、ピタリと張り付く気配を感じる。──聞き耳を立てられているのかも知れない。
いや、聞き耳とは表現が悪く、単に来客へお茶を出すタイミングを逃しているだけなのかもしれないが。
とにかく羅凍は、哀萩とすぐさま離れる。絆を深めたい気持ちでいっぱいになっていたが、この場で事に及ぶのは最善ではない。
──兄貴の部屋だったら、鍵がかかるのに。
恨み言を心の中でひっそりと呟いて、邪念を飛ばすよう務める。哀萩を晒したくはないと、その一心で。
「ごめん」
「ううん……その、私の方こそ……」
配慮が足らなかったと謝ったのに、哀萩は間を埋めようとしてきた。
どうやら羅凍の行動は、拒否されたわけではないらしい。
「哀萩は悪くないよ」
ふと、哀萩の目が泳いだ。そんな仕草もかわいらしいと見てしまう。
また近づきたくなり、羅凍は視界を哀萩から外す。かわいいと見とれてしまったら、理性が飛んでしまいそうだ。
そんなとき、スッと引き戸の動く音がした。見上げれば母がいる。
「遅くなってごめんなさいね」
少し開けられていたのか、何かを察して止まっていたのか。どちらにしても、入れずにいただろうと思えば、母に申し訳なさが湧く。
「いえいえそんな! ありがとうございます!」
慌てて茶飲みを受け取る哀萩にも申し訳がない。
すると、そんな羅凍の様子を知ってか知らずか、
「夕飯、よかったら食べていかない? 羅凍に勉強を教えてもらっているお礼に」
母は哀萩にこんな気遣いを言った。これには、思わずドキリとする。
横目で哀萩を見れば、相当驚いた表情をしている。
「え……そんな、悪いです」
首と両手をフルフルと振る哀萩に対し、母は『嫌じゃなければ』ともう一押し。
哀萩の『うっ』という声が聞こえた気がしたが一拍空き、
「い、いいんですか?」
哀萩はあまり断るのも失礼だと思ったのか、了承を返す。
母はうれしそうに『もちろん』と跳ね上がるように言い、羅凍にも笑顔を振りまいていった。
ピシャリとまた空間が区切られ、ふたりだけの空間に戻った。だが、先程とは違う空気だ。
羅凍は立ち上がり、自ら引き戸を全開にする。居間にいた兄と目が合い、何かを目で言われた気がした。
羅凍はクルリとすぐ居間に背を向けたが、兄は羅凍の表情でいきさつを察したのだろうか。
「哀萩ちゃん、ごめんね」
意味深な発言を兄はして、
「え?」
と哀萩を困らせた。
「続き……採点してよ」
言葉足らずになると、慌てて羅凍は言葉を足した。
羅凍が座り直すと、哀萩はハッとしたように赤ペンを持つ。
なぜか哀萩は急ぐような素振りをし、羅凍はその姿をふしぎに思いながら眺めた。
採点の結果は、大きな丸がいくつも描かれた。
哀萩が喜び、うれしそうに笑う。そうして、上機嫌で他のところも教えてくれた。
ほどなくして夕飯の声がかかる。羅凍はテーブルに並べられた食器の位置を確認して、哀萩をとなりに招く。
母に一礼して座り、父と兄にも会釈をする哀萩からは緊張が伝わってきた。慣れない人たちに囲まれたら、誰でも緊張するだろう。そう想像すれば、やはり申し訳なかった。
それでも、肩をすくませている姿もまた、かわいいと顔がにやけてしまう。いけないと口元を隠してみたが、父にも兄にも、母にも、羅凍の気持ちは筒抜けだろう。
食事が始まり、おいしいと言いながら食べる姿を見れば、羅凍は外聞などどうでもよくなってしまった。ただただ、今だかつてない幸せを感じるひとときを過ごす。
結局、誰も『彼女なのか』と聞かなかった。聞くだけ野暮だと思われたのかもしれない。
食事を終え、一息ついたころには想定していたよりもはるかに遅い時間になっていた。玄関に向かう哀萩に、
「送っていくよ」
と、羅凍は声をかける。
大丈夫と哀萩は遠慮をしたが、
「遅いから心配だし」
と羅凍は押し切った。
帰り道、哀萩が『楽しかった』と、心からの言葉のように言った。そうして、ポツリポツリと、これまで聞けなかった言葉たちがこぼれ始める。
「うちシングルマザーでね……ああいう家族団らんに憧れてたっていうか……。初めてで、新鮮だった」
ちょっと寂しそうな、でも本当にうれしそうな。
心にザワザワとする波が起こる笑顔だったが、その笑みにも惹かれていく。
「ありがとう」
「いつでもまた来てよ」
『健全に過ごすように努力するから』と加えれば、哀萩はなぜか声を出して笑う。
「『努力』なの?」
コロコロと笑いが止まらない。
唇に目が吸い寄せられたが、咄嗟に手をギュッと握る。
「そうだよ。……だって、大好きだから」
『今日はありがとう』と、照れを感謝で覆い被せる。
いつもの分かれ道まできてしまった。もう、繋いでいる手を離さなくてはいけない。
そう、思っていたのに。
握っていた手を手前に寄せ、指の境に唇を落としていた。
姿勢を戻せば、周囲はすっかり暗くなっていて。けれど、街頭が哀萩を照らしている。
「また、来てね」
「うん……」
俯いている哀萩の表情はわからない。
離しきれず支えているような手は、金縛りにあったかのように固くなっている。もう一度、別れる前に握り直そうとしたとき、
「ねぇ、私の頬には……してくれないの?」
ポツリと言われた哀萩の声にドキリとする。
じっとりと絡み合った互いの視線。ドキドキと鼓動が大きく聞こえてきた中、頬に触れる。
頬のやわらかさは二度目だが、要望されたと思えば喜びと緊張が混じる。首を伸ばし、ゆっくりとまぶたを閉じて、頬骨に唇を接触させる。
思いの外恥ずかしくなり、すぐに羅凍は体勢を戻す。
すると、照れていたのは羅凍だけではなかったようで。哀萩が恥ずかしそうに笑っている。
すっかり下がっている目元もかわいいと見ていたら、
「もう一回」
と、まさかの再要求だ。
いつになくにこにこしている哀萩は格段のかわいらしさで、よりドキドキする。緊張で妙な力が入ってしまうが、こんなチャンスを固まって逃すわけにはいかない。
羅凍はぎこちなく先ほどと同様の動きをする──と、今度は感触が異なった。
骨の固さがなく、ふんわりとやわらかい。
ふいにまぶたが開き、体勢を戻そうとする。耳が研ぎ澄まされたのか、水面に触れたような半濁音がちいさく聞こえた。
目が覚めたときのようにぼんやりと広がるのは夜の海のような、夜空のような深く沈んでいってしまいそうな色彩。その色彩に、羅凍はトプンと沈んだ。
鼓動が早くなって体温が急上昇したというのに、心地よいぬくもりを感じている。つい、抱き締めていたらしい。
哀萩の体は腕に収まるはずなのに、包み込むことはできなくて──高鳴る気持ちとは裏腹に緊張が増し、手が震えそうになった刹那、哀萩が囁いた。
驚きのあまり少し離れると、哀萩の顔が真っ赤になっている。羅凍は思わず再び抱き締めた。
口実は何度か継続され、勉強を教えるために哀萩は都度家に来てくれる。
哀萩が必死に勉強を教えてくれる姿を見ては、何度見てもかわいいと上の空になる。ただ、話半分になっても、相変わらず羅凍はサラサラと問題を解いたり、返答をしたりする。
勉強も運動もさほど苦労したことがないのだから、ボロは出ない。
一緒にいたいと言った口実だったが、逆に哀萩に教えた方がいいのではないかとぼんやり思うようになっている。
克主付属学校を卒業すれば将来は安泰らしい。通常は入学も進学も、卒業も並大抵ではないと聞く。
勉強に苦労しないとはいえ、羅凍でも飛び級試験を受ける度胸はない。それに羅凍には卒業を急ぐ理由はなく、着実に進学をして無事に卒業すればそれでいいとも思っている。
飛び級を初年度からした人物がいると噂を耳にしたことがあるが、実在するならバケモノだ。
教えてもらっていて、わかる。
哀萩は決して勉強ができない方ではないが、できる方でもないと。一緒に歩んでいきたいと羅凍は願っているが、数年後を考えると少々心配になってきてしまっていた。
けれど、どう言えばいいというのか。勉強会は哀萩と一緒に過ごす口実だったと暴露してしまうのは、さすがに後ろめたい。
いずれ気づかれるだろう。でも、そのときは、勉強ができるようになったのは哀萩のお陰だと言いたいのだ。




