【21】切なる願い(1)
忒畝は『瑠既』のことが気にはかかっていたが、同行するわけにもいかない。軽い朝食を食べ終わるころ、船は梛懦乙大陸の港町、絢朱に到着していた。絢朱から鴻嫗城までは、急いで歩いても一時間はかかる。ひとり船から降り、先を急ぐ。
梛懦乙大陸の港街である絢朱に、他の大陸のような賑やかさはない。むしろ、雑多としていては、不審者が容易に大陸に侵入しやすくなる。そんな警戒態勢がうかがえるほど静かでおだやかな雰囲気。警備も整っている。
港街を抜け、茂みや木々の中を歩き、しばらくして土の匂いが香ってきた。常に人の出入りがあるのを物語るように、土はしっかりと固まり、手入れが行き届いている。道幅は約二メートル。消して広くはないこの道は、近しい者だけが通ることを許されている鴻嫗城の秘密の出入口──裏門だ。
次第に左右には、形の整った木々が見えた。進むにつれて道幅は広がり、鴻嫗城が姿を見せる。正門は高い塀で有名だが、こちらの門は来る者を歓迎するように塀が低い。その低い門を守る者が見える。忒畝が会釈をすると、門番は深々と頭を下げ、問う。
「これは忒畝君主。ようこそお越しくださいました。本日のご連絡は……」
「お久しぶりです。急用とはいえ、お約束をせずに伺い申し訳ありません。裏から来たように、内密な用なのです。大臣の世良様に話をお通し願えますか」
「かしこまりました」
門番は内線を取り、忒畝の訪問を手短に伝える。
「申し訳ありませんが、世良がお待たせしてしまうということで、その間は沙稀が対応させていただくとのことです」
忒畝が意外に思いながらも了承する。それから十分も待たないうちに、
「ようこそお越しくださいました」
と、沙稀はやってきた。
裏口から城内へと入り、通された客間は普段案内をされる客間よりもちいさく、大臣が長く待たせないという意思を示しているように感じられる。
ふたりが部屋に入ると、使いの女性が忒畝の好むアップルティーを運んできた。ソファに座るふたりの間に、ほんわりとした湯気を揺らしながら、アップルティーをテーブルに置く。使いの女性は忒畝に会釈をして下がる。ふたりだけになると、すぐに忒畝が口を開いた。
「沙稀が僕を出迎えに来てくれるなんて、珍しいね」
「いや、忒畝が来てくれて助かった」
ふたりはカップに手を伸ばしながら談話を始める。先日のわだかまりはない。
「何かあったの?」
忒畝は何気なく聞く。
「まぁ……」
歯切れの悪い返答に、忒畝はドアの外に意識を向ける。しかし、忒畝が警戒するような、危険な気配は感じられない。
それによく考えてみれば、もし、危険な状態に陥っていれば、忒畝は城内に入れなかっただろう。悠穂の身を案じてここまで来たが、危機にさらされているわけではないのかもしれない──そう感じて緊張は緩和されていく。
そういえば、沙稀は大臣の代わりに出迎えてくれた。しかも、『助かった』とまで言っていた。沙稀はわざわざ席を外したかった相手でもいたのだろうか。
例えば、大臣が他の来客を対応していたと仮定して、そこへ忒畝が来たなら、格上の忒畝の対応に大臣は来るだろう。そうでなければ、他に喜んで出てくる人物がいる。それだけ沙稀が対応に来たのは珍しい。
「恭良は?」
「久しぶりに姿をお見せになった方に、恭姫も大臣も対応に追われている」
なるほど、と忒畝は思う。もうひとりの来客に、心あたりがある。
「瑠既……様?」
「ご名答。やっぱり、忒畝は覚えていたんだね」
沙稀はコトリとカップをソーサーに戻す。
「俺は詫びないといけない。悪意がなかったとはいえ、忒畝の踏み込んでほしくないことに触れてしまった。申し訳なかった」
その言葉に、今度は忒畝がカップを置く。
「沙稀は素直な人だね。あのとき僕は、悪意を含めてわざと沙稀の触れてほしくないことに触れたのに」
「それは、守りたいものを守るためだ。だから、責めようとは思わない。それに、やっぱり俺は忒畝を敵には回したくない」
沙稀の真剣な眼差しに、忒畝は口を開かない。だからと言って、視線を逸らしもしない。沙稀は更に言う。
「こんなに急に来たんだ。よほどのことがあったんだろう? 鴻嫗城は、できる限り協力する」
沙稀は忒畝に向かって、スッと手を伸ばす。忒畝はその手をジッと見て、視線を上げる。
「僕も沙稀に協力できるとは限らないよ? 守りたいものが最優先だから」
「構わない。それに、何を最優先にするかはお互い様だ」
忒畝はクスリと笑い、
「僕は、いい友を持ったね」
と、沙稀の手を握る。沙稀には、安堵の表情が浮かぶ。一時、固く握られた手はやがて離れると、
「それで、どうすればいい?」
と、沙稀は話の確信を訪ねる。
「人を捜してここに来たんだ。たぶん、来るならここだと思って」
「それは……四戦獣?」
沙稀の問いに、忒畝は迷う。しかし、もう、腹を割って話さなくてはならない。
「僕の捜している人は違うけど……彼女たちも現れるかもしれない。いや、その可能性は高いと思っている。四戦獣は目覚めている。そう、二十年以上前に。……沙稀も知っているように、その昔、女悪神の血を継ぐ者は最高位に君臨した。だから、彼女たちの目的はわからないけど、何か騒ぎを起こすなら……最初はここになると思う」
伝説は現実に起こっていた過去の記録であり、伝説で語られていた者たちの封印はすでに解けている。──忒畝はそう告げた。
以前までのように伝説をただの伝説として知っているだけなら、沙稀も到底信じられなかった話だ。
ただ、それは先日変わった。克主研究所で見聞きしたこと、感じたことを考えれば、信じるしかない。
尚且つ、忒畝は白緑色の髪を、四戦獣が持っていた髪の色彩を持っている。先日の態度といい、無関係ではないという結論を沙稀は出してしまっている。
忒畝の言葉は、重く沙稀にのしかかる。──何か騒ぎが起きるなら、最初はここになる、と。
被害は予測不能だ。
「最初は……というと、次もあると?」
「わからない。彼女たちの目的がわかれば、僕もどうしたらいいのかがわかるのかもしれないけれど……今は、捜したい人を見つけることの方が第一優先だから」
「わかった。城内を捜索したいというのであれば、どこでも道案内するよ」
「ありがとう。心強いよ」
コンコンコン
不意に聞こえたノック音。ふたりは言葉を止める。
「はい」
沙稀の返事に、ゆっくりと開く扉の先には、深々と礼をした大臣の姿があった。
「忒畝君主、お待たせしてしまい、大変申し訳ありません」
おっとりとした落ち着きの払った声。白髪で年を重ねてきても尚、凛々しさが漂っている。
大臣は姿勢を戻し、沙稀に気づくと、突如慌てた。
「沙稀様! ここにいらしたのですか。こ、ここで瑠既様に見つかってしまったら、大変です」
「恭姫の前では会いたくない」
忒畝は呆然と沙稀と大臣のやりとりを眺める。こんなに焦る大臣は見たことがない。
「しかし!」
焦りは禁物だ。焦っているときほど、人はミスを犯す。
「大臣、沙稀は……」
ドアを閉めずに話していた大臣が悪かった。扉から顔をのぞかせたのは、よりによって瑠既だ。
瑠既は部屋を見るなり、視界が捉えた人物を疑うように見る。
「沙……稀?」
確認するような瑠既の呼びかけ。
だが、沙稀は呼びかけに反応しようとはしない。その態度に、瑠既は早足で沙稀に近づく。
「どういうことだよ」
「瑠既様、お客様の前です。おやめください」
大臣は何とかこの場をおさめようと必死に止めに入る。しかし、瑠既は忒畝を視界に入れたのか、入れないのか――忒畝の存在に構わず言葉を続ける。
「沙稀、説明くらい……」
「瑠既様、沙稀様。この場ではなく、おふたりだけで、別の場所でお話になってください」
「大臣が説明しないからだろ」
場を繕おうとする大臣に、沙稀は冷たく言う。ただし、それを黙って大人しく聞く大臣ではない。
「瑠既様は私と、ではなく、貴男とお話がしたいようですよ」
「どういうことだよ、お前が恭良を姫として扱っているなんて」
瑠既の発言に、沙稀は立ち上がる。
「今、恭姫を侮辱したな」