12▶弟 3:隔たり
「やめろよ!」
何人かの女子たちが振り向いた。羅凍を見て、顔色を変え後退る。
羅凍が叫ぶ前、わずかな声が聞こえた。声の主を確信して自ら飛び込むような真似をした──のに、女子たちが開けた空間から、その人物が座り込んでいる姿を見、怒りに震えた。
ふと、視線が合った。その瞳には涙がたまっていたが、羅凍は気づかないふりをし女子たちを一瞥する。
女子に手を上げてはいけない──わかっているのに、衝動のまま足を動かす。呼びかけてくる自我が、足を重くする。
拳を上げるなと、内なる呼びかけがこだまする。
「羅、羅凍くん……」
女子たちがまた数人振り向き、名を呼んだ。視線をそちらに向ければ、みるみる青ざめていく。
怒りをこらえ手を握り締めているせいで、顔にも感情が表れているのかもしれない。怯えさせたいわけではないが、感情を抑制しようとしている分、言葉まで止められなかった。
「俺の彼女に、何してくれてんの」
女子たちがビクッとしたあと狼狽し、散っていく。影になっていた姿に光が当たり、際立った。座り込んでいるのは、間違いなく哀萩だった。
哀萩は怯えながらも安心したような、苦笑いにも似た歪んだ笑みを浮かべる。
つぶれた瞳から、ホロリと雫が落ちた。
安堵したのだろうが、その雫は羅凍に怒りが煮えくり返る音を初めて聞かせた。
「そうだ」
彼女を守るように壁に背を向けた羅凍は、女子たちの背に声を投げる。
「名前呼び、やめてくんない? 俺の苗字変わっているし、苗字呼ばれればすぐわかるから」
元貴族同士なら名を呼び合えるが、一般人は苗字でしか呼べない決まり事がある。元貴族同士ではない場合の例外は、本人が認めたときだけだ。
貴族制度が廃止されてずい分経つとされているのに、未だ身分差の隔たりは残っている。
ただ、羅凍は本来こういう名残を好まない。けれど、好みで通例を無視してもいいとも思っていない。
これまで噂話で聞こえても黙認していたのは、聞こえていないふりをしてきたからこそ。だが、大事にしたい人をぞんざいにされ、聞き逃せなくなった。
女子たちは泣き叫びながら走り去ったが、羅凍の怒りは消えない。
「あ……ありがとう」
背後から気まずそうな哀萩の声が聞こえる。
クルリと向き直れば、哀萩は襟元を整えていた。
「大丈夫? よければ送……」
「さっきの……」
ペタンと座っている哀萩に手を伸ばしかけたとき、哀萩が口を開いた。
羅凍はすべての動作が止まり、目を丸くする。頭に血が上っていた。おかしなことを言ったかもしれない。
「えと……ああ、俺、苗字は言ってなかったね。いや、『羅凍』って呼んでくれていいっていうか、そうしてほしいんだけど……」
「そうじゃなくて。いや、それもあれだけど、その前……」
『その前』と言われ、散らばる記憶の欠片を瞬時に漁る。そして、『俺の彼女』と言ってしまったと気づく。
まだ、告白すらしていないのに。
「あ……」
うつむいている彼女を前に、顔が歪む。告白する踏ん切りなど、つけていなかった。まずは友人のような関係を築きたいと思っていたのに。
時間は巻き戻せない。
キュッと唇を一度閉じ、覚悟を決める。こうなったら観念するしかない。
「勝手に『俺の彼女』って言って、ごめん。ただ、その……気持ちは本当だよ。好きなんだ」
失恋を恐れ、時間をかけて進展していけばいいと願っていたが、そもそも恋の駆け引きなんか無理だと潔く諦める。
そうして、先延ばしにしたことを洗いざらい話すことにした。
「古武道を選択したのは、哀萩に一目惚れしたからだし」
絶句──と言っていいだろう。信じられない、そんな雰囲気が哀萩から漂ってくる。
間に耐えきれなくなり、場を繋ぐように羅凍は更に言う。
「嘘じゃないよ」
哀萩が立ち上がった。
何もなかったかのようにスカートの後ろをはたき、ポソリと呟く。
「帰ろうかな」
「え?」
「さっき、送るって言いかけたでしょ?」
『私が遮っちゃったけど』と哀萩が付け加えた。
確かに、羅凍は言いかけた。ただ、これでは告白を流された気がする。しかし、このままここで話していても、気まずさは消えそうにない。
「うん、言いかけた」
先ほど伸ばしそびれた手を伸ばす。
「一緒に帰ろう」
つい照れ笑いをしてしまったが、哀萩は羅凍の表情を見ていないかのように淡々と言う。
「ううん。ひとりで帰る。……今日も研究授業に参加したら?」
羅凍は言葉を失いかけたが、食い下がる。
「心配だから送る。それに、哀萩がいなきゃ教えてもらえる人がいない」
「誰でも教えてくれるわよ」
すれ違いざまに哀萩が言った。すぐさま羅凍は振り返り、声を大にして言う。
「俺は哀萩に教えてほしいんだって!」
早足で追いつき、並んで歩く。
チラリと、哀萩が羅凍を見上げた。
不意に目が合い、思わず羅凍は言い淀む。
「不純な気持ちで申し出てごめん」
「別に」
「怒ってる? 俺、哀萩が教えてくれたら真面目に取り組むよ?」
頬がゆるんでしまっていると自覚しながらも、引き締められない。哀萩に呆れられてしまうと思った矢先──その頬がほんのり赤みを帯びていると気づいた。
これには羅凍が動揺する。哀萩は怒っていたわけではないのかもしれない。
安堵と自惚れが交錯し、けれど、二の舞は踏むまいと気を引き締める。
校舎を出ると、いくつもの方向から視線を感じた。先ほどの女子たちがいるとしたら、恋人にしては不自然な距離だと思うかも知れない。
咄嗟に羅凍は哀萩の手を取る。
「ふりでいいから。俺に守らせて」
振り向きかけた哀萩の耳元に囁く。
歩幅をちいさくして歩く羅凍に、ポツポツと哀萩は付いてきてくれた。
どうやら、『演技』に同意してくれたらしい。
そうして、ぎこちないながらもまた一緒に帰り、羅凍は浮き立った気持ちのまま休日を迎えた。
家族と約束通り防具を買いに出かけ、選んでいるときでさえ哀萩を思い出す。
その様子を家族が微笑ましく見ていることに、羅凍はまったく気づけなかった。
休日明けから羅凍は哀萩に教えてもらい、要領よく古武道を身につけていく。
数ヶ月後には、初心者とは思えないほどの実力をつけた。
告白の返事をもらえないままだったが、哀萩とは何となく一緒に帰ったり、研究授業も一緒に向ったりする仲になれた。
やがて一緒に通学する約束を取り付け、羅凍は思わず哀萩の両手を握り、喜びを噛み締める。
恋人同士ではないと自戒しつつ、当初望んだような関係になれたと羅凍は歓喜した。
羅凍の心中はさておき、研究授業で一緒にいるのは、とうにおなじみの光景となった。
手取り足取り羅凍が教えてもらっている姿を見てきた周囲は、いつしかふたりが親密な関係だと感じているようだ。
そんなある日の帰り道。
羅凍はいつもの分かれ道で手を離し、勇気を絞って一歩踏み出そうとする。
「あのさ、教えてほしい学科があるんだけど……このあとよければ家で教えてくれない?」
意を決して言ったのに、言われた方はきょとんと羅凍を見上げている。
静かな夜空を思わせる可憐な瞳に、羅凍は口ごもる。
「いや、哀萩って教えるのうまいから……それにうち寺院だから常に両親がいるし、たぶん、兄貴もいるから……」
ゴニョゴニョとふたりきりではないと伝える。すると、目を丸くしていた哀萩が笑い出した。
今度は羅凍が目を丸くした。だが、次の瞬間、鼓動が大きく跳ねた。
「うん、私でわかることならね」
笑いながら答える哀萩は、いつになく楽しそうだ。
ここぞとばかりに、羅凍は哀萩の手を繋ぐ。ここれまでは『恋人』と装うために手を繋いできた。ただし、これは装うためではない。
すっぽり包み込めるほどの手をやさしく握れば、ギュッと胸が締め付けられる。
歩き出したものの、告白の返事を催促した方がいいのかと考える。ただ、繋いた手を離したくないとも感情がせめぎ合う。
笑い声が、いつの間にか止まっていた。
歩く速度も、ゆっくりになっている気がする。
「嫌なら……言ってね」
無理強いはしたくないと告げる。
「うん。驚いただけ」
キュッとつかまれ、逆に羅凍の力が抜ける。ブワッと汗が滲んで、慌てて手を抜き取った。
「ごめん、汗が……」
顔からは火が吹き出そうだ。赤面していたのか、羅凍の顔を見て哀萩が照れ笑いをした気がした。




