5▶神樂 3:不安と高揚感
「行くぅ……」
鼻をすすりながら涙を止めようとする馨凛に、忒畝は笑顔を精一杯向ける。
「ごめんなさいね、忒畝くん」
上から降ってきた釈来の声。
忒畝は馨凛に手を伸ばし、頭をなでたいと思ったが遠慮した。
「いいえ、馨凛ちゃんも僕にとったらかわいい妹と同じです」
悠穂と重なったが、幸い、悠穂は馨凛のようにはぐずらない。悠穂の方が二歳年上なのが大きいだろう。
少し寂しいと思いつつ、忒畝が立ち上がると、
「賑やかだと思ったら……おはよう。姉さんの体調は変わりない?」
と、今度は男性の声。この声は馨民の父、酉惟だ。
酉惟は忒畝の母の弟。つまりは叔父だ。母と同じく藤鼠色の色彩を持つ。馨民たち姉妹の色彩は、父親似だろう。
「おはようございます。はい、元気すぎるくらい元気です」
「それならよかった」
「忒畝、行こう?」
後ろからの催促の声に『うん』と忒畝は返答する。
「行ってきます」
忒畝は一礼し、馨凛に手を振る。
玄関を出る間際、
「馨民も」
忒畝はすれ違いざまに囁く。
小声で言われた馨民は玄関から顔をのぞかせ、妹に手を振ったのだろう。忒畝の背後から、馨凛のかわいらしく元気な声が聞こえた。
パタパタと馨民が走ってきて、忒畝に追いつく。
忒畝が自然と笑顔を浮かべていたのか、馨民も笑顔だ。
今日の馨民の服装は、試験の日よりも長めのAラインスカート。淡い色合いで、何とも春らしい。
ふたりは楽しく会話を交わし、試験の日に通った道を新たな気持ちで歩く。
門を入ってすぐ、クラス表が貼ってあった。忒畝と馨民は各自見上げ、自身の名を探す。
ただ、ふたりとも自身の名を見つけたあと、互いの名を探していたようで──。
「同じクラスだね!」
「そうだね」
嬉々とした笑顔が咲き、また一緒に歩いていく。
教室に入れば、黒板に書いてある席順が目に飛び込んできた。男女別に五十音順。男子は廊下側から、女子は窓側からになっている。
忒畝は一番廊下側のやや後ろ、馨民は一番窓側の中央だ。互いに自身の座る方向を見、互いを見合う。
馨民は眉を下げ、忒畝に手を振り窓側へと向かっていく。
『男女交互の並びだったら、席が近かったのに』──そんな声が聞こえてきそうだった。
規律を守る──のは当たり前で。それが学校であり、集団生活で。馨民は理解しているからこそ、無言で従ったのだろう。
忒畝も割り切り、指定されている席へと座る。鞄を開け、筆記用具を出していると、女性の先生が入ってきた。
どうやら今年一年お世話になる担任の先生らしい。自己紹介と入学祝いの言葉のあと、今後特に使うであろう校舎内の位置と、克主付属学校の歴史について話があった。
そうして、
「まぁ、君たちは克主付属学校の歴史はよく知っていると思うけど」
とにっこり微笑み、一度締め括る。
さて、ここからが本番だと言うように、再び担任は口を開いた。
「今日から君たちは、基本的に十一年間この場で学びます。ただし、学力と希望次第では飛び級できる制度があります」
一瞥していた視線は、忒畝を一瞬捉えた気がした。
「頑張って早く卒業し、他の人たちよりも一歩先に進路へ進む……と、いう道も選べるのです」
この場にいる生徒たちは皆、今年八歳になる者たち。けれど、担任は彼らを八歳とは扱っていない。個としてすでに受け止めている。
たった一言で、体を貫かれた感覚。忒畝は目が覚めたような気がした。
「貴方たちの中でどれだけの人たちが克主病院に関わる職に就くかはわからないけれど、私はみんなに期待しているわよ」
忒畝が思い浮かべたのは両親。
両親は薬剤師だ。父の悠畝は薬の開発にも携わっている。
克主病院に関わる職種は、幅が広い。目の当たりにしている教育の他に、病院ならではの医師や看護師、それに薬剤師まで。他にも勤務する者たちを支える食堂や物品販売、清掃など多岐に渡る。
『期待』と耳にし、忒畝にはちょっとした不安と高揚感が湧いた。
これまでの忒畝にとって学ぶことは好奇心を満たしてくれるものであり、克主病院の付属学校に入学したのは、その延長線。
入学は一種のゴールで、まだ遠い卒業を見据えたことがなかったから。
『どんな職に就くのか』を、まだ想像できない。
けれど、学んでいく環境下で『始まった』と、楽しみと喜びを実感する。
初日はあいさつや案内に終始した。準備の時間だったと解釈する。
そうして帰りのあいさつが終わると、
「帰ろう」
試験の日のように、馨民が青紫に見える長い髪の毛を揺らした。
馨民と話しながらまた帰路を歩き、一度帰宅して、これまでと同様に互いの家に行き来する日々が始まる。
ふたりは互いの部屋で遊んでいるかのように復習や予習をして過ごした。
忒畝の両親も、馨民の両親もそんなふたりを微笑ましく見守る。
おだやかに、けれどあっという間に月日は流れていき、気づけば一年の終わりが見えてきた。
新たな年を見据える、そんな雰囲気が漂うころ、ふと馨民が忒畝に言う。
「忒畝は飛び級……する?」
まだ八歳の忒畝は目を丸くする。いや、二月生まれの馨民は七歳だ。だから、余計に驚いた。
忒畝は首を傾げる。恐らく、いくつものことを考えているのだろう。ほどなくして口を開く。
「そうだね。してみようかな」
「本当に?」
ポツリと答えた忒畝に対し、馨民は目を輝かせる。
「うん……僕は父さんみたいになりたいなぁって思うから、早く父さんのとなりに立てるようになりたいかな」
「薬剤師になるの?」
薬を開発する人になるの? とも、馨民は前のめりで聞いてくる。だが、忒畝にとっては、父は父。
父は率先して薬の開発部に行ったわけではないと言っていた。いわゆる引き抜き。元々薬の開発部にいる馨民の両親とは違う。だから今後、父が何をするのか、忒畝には見当が付かない。
ただ、父を目標とするならば。元々の父の職業を目指せば、父の存在に近づけるだろうと忒畝は結論を出した。
「そうだね。一先ずは薬剤師になる。薬を開発する人になるかは、薬剤師になったあとに考えようかな」
忒畝が言うと、
「わ、私も! 私も薬剤師になる! だから、その……一緒に頑張ろ?」
馨民は急に勢いを失う。
うつむく様は、恥ずかしがっているように見え、忒畝はちいさく笑う。
「うん、一緒に頑張ろう」
こうしてふたりは目標を定め、より勉学に励むようになった。
忒畝が飛び級をしてみると両親に話せば、ふたりは目を大きく開いたが、
「わかった。……頑張れ」
と、父は忒畝の頭をなで激励してくれた。
母は動揺していたようだが、
「忒畝が決めたことだから……僕たちは見守ろう」
と父は母を宥めた。
今年生まれた忒畝の兄弟は弟だった。
名は悠という。
「どうしても、この名前が付けたかったの」
母がそう言っていたから、もしかしたら『悠』という名は忒畝に付けられていたかも知れない──と、忒畝は思ったものだ。
両親が話している間に、忒畝は悠穂と一緒に悠のそばへと行く。よく眠る顔を見て、
「かわいいね」
と悠穂と話しかければ、悠穂は満面の笑みで首肯する。その仕草もとてもかわいらしいもので、
「もちろん、悠穂もかわいい!」
と、つい悠穂を抱き締めていた。
忒畝は幸せで胸がいっぱいになる。
こんなに幸せな家庭を自らも築きたいと漠然と思うようになったのは、いつからだったか。
忒畝の目標は、あらゆる面で父で──こうして家族といると、ふしぎと頑張ろうと思えてくるのだ。
およそ一ヶ月後、忒畝と馨民は克主病院兼、付属学校始まって以来の一年生での飛び級試験を受ける。




