【20】確信
梛懦乙大陸、鴻嫗城──剣を振り、剣士たちを厳しく指導する沙稀の姿が稽古場にある。リラの長い髪は意思あるように動き、殺気に覆われている。
帰城する前、港街の緋倉で聞き覚えのある名を耳にし、思わず体が反応した。
目にした人物は、全体的にやや長めであるものの、クロッカスの短い髪。体格は似ているように見えたが、身長は向こうの方が明らかに高かった。
名を聞いて一目見ただけで、本人だと断定できた。その人物を目にして、沙稀は現実ではないと、幻だと思おうとした。
生死もわからないまま長い月日は過ぎた。もし、生きていても、再会することはないと思っていた。──特に、あんな場所では。頭の整理など、気持ちの整理など、あの一瞬でつけられるはずもない。
それなのに、ふいに視線が合った。恭良の声で我に返り、咄嗟に体の向きを変えたときは、遅かった。
声は嫌でも鼓膜を振動して伝わり、左腕をつかまれた。その力の強さに、感情が一気に膨れ上がり──だからこそ、あんなことを言ってしまった。
あの名を呼んだ女の声が再び聞こえたが、沙稀は頑なに振り返ろうとはしなかった。あんな姿を見たくも、こんな姿を見られたくもない。
──会いたくなかった。あんな風になんて。
悲しみにも似た激しい怒り。
何度も何度も王に探せと言われつつも、探そうとしなかったのは、万一のことを恐れていたからだ。もし、命が尽きていたと知ったら、その悲しみは計り知れない。
本心を素直に言えば、生きていると知れて何よりもうれしかった。ただ、津波のように感情は押し寄せ、喜びを呑み込んだ。波が引いたら、急激に裏切られた気持ちが沸き上がった。仕来りを軽い気持ちで破っていると感じて、居ても立っても居られなかった。
──本当に最悪だ。
冷たく言い捨てたことを、後悔してはいない。ただただ、言葉にできないほど最悪だっただけだ。生死など、知らない方がよかった。
帰城してから、大臣には極力会わないようにしている。本来なら、すぐにでも言わなければいけないことだ。
しかし、どう伝えたらいいのか。答えを出せずにいる。
緋倉で会った人物は貴族の仕来りを破り、髪を短く切っていた。あれは、身分を隠すためではなく、生家との決別の証。やはり、あの男は帰れない状況だったわけではなく、帰らないという選択をしていたということ。
それを、どう大臣に言えばいいのか。
いっそ、会わなかったことにして、言わなければいい。そうも思うが、沙稀の中では、なかったことにはできない。
苦悩は剣を荒く導く。鋭い音ではなく、鈍い音を立て剣の筋は迷いが生じ、隙を生む。──これでは、普段息を乱れさせない沙稀の呼吸が上がっても当然だ。
「休憩です」
突如聞こえたのは、大臣の声。
──よりによって。
呟きをそう心の中だけで抑えても、苦虫を噛みつぶしたような表情はしっかりと顔に刻まれている。
大臣の声により、剣士は散り散りに癒しの時間をとる。
「どうしたのですか。そんなに隙だらけの貴男は見たことがありません。それに、こんなに根詰めた訓練は、訓練にはなりません」
「ああ、悪い」
言葉を流しているのは、視線が物語っている。大臣を瞳に映そうとはしない。
「沙稀様。私のこと……避けていらっしゃいますよね」
疑問形ではなく、断定されたその発言に、沙稀は否定も肯定もしない。尚も大臣は続ける。
「理由はわかっています。沙稀様は嘘をつくのが苦手な方です。それも、超がつくほど。……私に何か、嘘をつかないといけないようなことがあるのでしょう。ただ、その原因までは口を開いてくれない限り、いくら私でもわからないでしょうね」
「そういえば、大臣には聞かないといけない話があった」
「恭良様のご婚約話ですか?」
沙稀は平然と大臣を見ると、うなずく。すると、大臣はにっこりと微笑む。
「そのお話は、まだ先にしておきましょう。そうですね……沙稀様が私に話さないといけないそのお話をしてくださったら……にしましょうか」
それでは、と大臣は踵を返す。
「食えない男だ」
沙稀は呟く。──同類だという自覚は、更々ない。
大臣は、要は八つ当たりだと言っていた。確かに、それは訓練にはならない。
「解散だ」
定時よりも早い時間だが、沙稀は終わりを告げる。そして、次の一言に剣士たちはどよめく。
「今日の飯当番は俺がやる。大丈夫だ。こう見えても、恭姫の側近をする前は俺も当番を担っていた。それからも気晴らしで作るときはある。味は保証できるはずだ」
沙稀が姫の護衛になる前に、ともに一剣士として過ごした者はこの場に少ない。今、当時の味を知る者は数える程度だ。
「沙稀様が……気晴らしに料理」
と、その姿を想像できないとこぼす者もいるが、
「あの都市伝説のように語り継がれてきた、超絶うまいという沙稀様の料理を……」
「つ、ついに俺たちが食えるのか?」
と、動揺と歓喜が広がっていく。
「八つ当たりをしてしまった侘びだ。だたし、ひとつだけ覚悟してほしい」
「沙稀の料理には、肉は入らん。皆、心しておけ」
聞き慣れない声が響き、剣士たちは誰だと口々に言う。しかし、響いた声に驚いたのは沙稀だ。まさかと思いながらも、懐かしい声の方を向く。
沙稀に敬称を付けずに話したのは、
「岩」
という、愛称を持つ者だった。
かわいげのなかった一剣士だったころの、幼い沙稀の二人目の相棒だ。尚且つ、沙稀の相棒になり命を失わなかった者は、岩だけ。
岩は片手を上げ、片方の口角を上げる。とはいえ、その手にある指は、わずかなものだ。──そう、今、彼は剣士ではない。
「久しぶりに味見をしてもらおうか。作り終わったら、呼びにくる」
「おう」
返事を聞き、沙稀は調理へと向かう。
岩は何とか一命を取り留めたが、その後、精神を病んでしまった。今は剣士たちの部屋の奥で、ひっそりと療養生活をしている。
沙稀から会いに行くことはない。それは、心の傷を刺激したくないから。会うのは久しぶりだ。最後に会ったときの岩は、見ていられなかった。
──元気になってくれて、よかった。
思っても、本人には言えない。
稽古場の奥のキッチンを見渡せば、きちんと清潔に保たれている。剣士たちが変わらず整備している証拠だ。剣士たちは自分たちの食事のすべてを、自分たちで支度し、片付ける。それが鴻嫗城のルール。厳しい稽古のあと、ゆっくりする時間を削っての食事当番は、身体的に辛い時期もあった。
だが、それも気晴らしだと、気持ちを切り替えるまでの話。そう切り替えてからは、かえって息抜きができ、いい時間となった。だからこそ、沙稀は今でも自身で料理をすることがある。
大鍋を片手に取り、まな板のとなりに置く。人参や玉ねぎ、茄子とトマトを目の前に置き、ザクザクと包丁を入れていく。
沙稀には、気になっていたことがある。忒畝のあの言動だ。尚且つ、別れる直前に呼び止めて、釘まで刺した。
忒畝の譲れない、守りたいものに触れた記憶は、沙稀にない。望んで敵対しようとはしないが、守るためには手段を選ばないとまで言っていた。
大鍋に切った野菜を入れ、炒め始める。そこへホタテとエビ、イカを入れる。
忒畝の想いは、沙稀の鴻嫗城への想いと似るものがあった。──これは、確信だ。忒畝は伝説と密接な関係にある。
水を大鍋に投入すると、至った結論が弾けるような、大きな音が上がる。結論は、間違いなさそうだ。
ほどよく煮立つと、沙稀はかつての相棒を呼びに行く。
「岩、待たせた。来てくれるか?」
「おうよ」
下品な笑みは、沙稀とは対照的だ。それにも関わらず、沙稀はうれしそうに笑う。──剣を握れないほど指を失い、年齢以上に歯も失い、心もずいぶん失われたとしても、沙稀にとって岩は大切な存在だ。肉を食べられていたときも、食べられなくなったときも、そばにいたのは岩だった。
キッチンへと戻ると、沙稀はもう一度煮立たせる。火を止めていくつかのスパイスが混ざった粉を溶かすと、味見を岩に求める。
「ん~、いい香りだ。これは、シーフードカレーだな。懐かしい」
コクリと口に含み、岩の表情は幸せに包まれる。味がどうだったかは、聞くまでもない。