【序─2】赤い実
「大丈夫?」
やさしい声に、彼女はやっと動く視線を動かした。地に這いながら見上げた者は、光を背負ったように眩しかった。
「おい、放っておけよ」
眩しい姿より遠くから、冷たい男性の声が聞こえた。
けれどそんな言葉は、彼女には幾度も浴びせられてきたものだ。
「でも、そんなことしたら……」
やさしい声は遠くへ返事をし、彼女の瞳は虚ろになる。まぶたが重いかのように閉じると、辺りは暗くなった。次の瞬間、彼女は信じられない出来事に襲われる。
汚らしい彼女の頬にきれいで美しく、しなやかな細い指が触れられた。
彼女が驚き、目を剥く。
見上げた指の持ち主は美しかった。キラキラと輝く姿は、女神と呼ぶにふさわしい。輝く髪は、長くゆらめき、淡い色をしていた。
彼女を見つめるのは、透き通るような緑色の瞳。
「ぁ……ぅ……」
彼女は声にならない声をもらす。すると、彼女の体はやさしい布に包まれるように、やわらかなものに包まれた。
「よかった。まだ生きていて」
やさしい声の持ち主は、彼女を抱き上げる。クルリと半回転をし、先ほど声を投げかけた男性の、闇のような瞳を見る。
「このままでは、この子は死んでしまう」
悔しそうな視線に、男性はため息をつく。
「私に『命を見捨てろ』と言うの?」
「勝手にしろ」
強い口調に男性は折れた。微かな不安を覚えながら。
数日が経ち、彼女の容体は回復していった。そして、救ってくれたのはまめに看病してくれた女性だと、その美しさに見とれた。
こんな愛情を受けたのは何年ぶりか、はたまた初めてか。心の美しさにまで惚れ込み、母さえ与えてくれなかっただろう深い愛を、貪欲に欲した。
──この人がほしい。……この人は、あんなに汚い私を拾って、助けてくれた。
一方の女性は、彼女の欲まみれの心を知らず、ただ彼女の回復を感じ取り微笑む。
その微妙な温度差を、男性は違和感として捉えていた。
幾日か経ったある日の夜のこと。
男性は、熱心に彼女を看る女性を半ば呆れるように見ていた。
「あまり深入りするなよ」
男性は冷たい声でサラリと言う。
女性は彼女の髪をふわりふわりとなでていた。静かな呼吸を聞き、大人しい彼女が寝ていると判断したのだろう。
微笑んでいた女性は、ふと笑みを消し、男性を直視する。
男性には、その視線が彼女を庇っているように見えた。
「何だ」
「何でもないわ」
女性は再び男性から視線を外し、彼女を見守った。
神は、不用意に人に手を差し伸べてはいけない。
助ける者は定められており、それは、大神の命にのみ遂行される。
彼女を助けることは、大神の命ではない。
女性の行為は、大神の意に背いている。見逃している男性も同罪だ。
天界に還れば何かしらの処罰を受ける覚悟を、男性はしていた。天界で暮らすには、大神は絶対の存在。大神は、神を総括する者だ。
これまで以上に酷な遣いを言い渡されるかもしれない。
だが、それだけならまだいい。
遠目でふたりの光景を見ていた男性には、不安が日々増していく。女性が深入りしすぎているように感じて。
還るまでの、猶予の間だけの思い出作りならいいと、男性は目をつぶった。
それだけなら、大神も見逃してくれるかもしれないと甘えが出た。
数日後、彼女はすっかり回復していた。肩ほどの長さの髪を風になびかせ、走れるほど元気だ。女性はそれを見て、心底うれしそうに微笑む。
「そろそろ還るぞ」
ふたりは、俗世の均衡を保つためだけに地上に降りるのが務め。人の姿は、仮の姿。実像はあるようでない、人ならぬ存在。
事が済めば、与えられた期間内に天界に還るのが掟。
男性の言葉に、彼女は強烈な不安を覚えた。ほしいと思った女性が、遠くに消えてしまうと危機を覚える。
「そいつは置いていけよ」
男性の声に、体を震わせ女性は振り向く。
しかし、男性は女性を見ない。『言わなくてもわかっているだろ』と、態度で示す。
彼女は人だ。
当然ながら、地上に置いていかなくてはならない。まして、生きている者など。
女性の動揺が男性に伝わってくる。怒りと戸惑い、歯がゆさ。──片割れのようだった、あの愛の神の変貌を目の当たりにしたときと似た感情だろうか。
動揺する最中、女性の腕が強く握られ我に返る。彼女のちいさな手が、女性を心配するように握られている。
いや、不安だったのだろうか。
悲し気な瞳を向ける彼女を、女性は慈しみながら、なでた。
問題は翌日起きた。男性が場を離れた、一瞬に。
「おいしい?」
彼女はうれしそうに女性に聞く。早い食事をふたりでとっているのかと、男性は聞こえた声を気に止めようとしなかった。
「うん。おいしい」
いつになく弾んだ女性の声に、男性は違和感を覚える。まさかと思い、ふたりへ視線を動かす。
その光景に目を見開いた。
幸せそうに微笑む女性は、赤い実を片手に持っていた。握れるほどの大きさの、赤い実。
男性は青ざめる。
「何を……している?」
「え?」
男性の声に驚き、女性の手から赤い実が転げる。
「お前なっ! もし、コイツが『悪魔』だったら……」
彼女がすかさず転がった赤い実を両手で拾う。そして──。
サクッ
赤い実は、かじられた。
ちいさな咀嚼音がシャリシャリと、男性を沈めていく。すべてが無になり、固い実が砕けていく音に囚われた感覚に陥る。
悪魔と同じ赤い実をかじると、赤い実は『禁断の果実』に変わってしまう。
心は奪われ続け、浸食される。
互いに強く結ばれ、離れられなくなってしまう。
神ならば、常識として周知されている事柄。
男性はおそるおそる視線を移す。
高鳴る鼓動が体を大きく揺らす感覚を覚えながら、ゆっくりと体もその方向へと動いていた。
彼女が転がった赤い実を手に取り、おいしそうにかじっている。
ただし、彼女にとっては確認行為だった。単純に、女性にあげた赤い実が本当においしかったかと知りたかっただけだ。
男性が不在中、彼女は女性に恩を返したいと考えた。そうして、近くに実っていた赤い実を見つける。
彼女は懸命に木を登り、赤い実をもいだ。
それはとてもおいしそうに見え、手にした彼女は満面の笑みを浮かべる。
しばらく赤い実を恍惚と眺めうっとりしたあと、傷付けないよう大切に果実を守りながら木を降りた。
代わりに、彼女の手足に多少の擦り傷が付く。けれど、それらをまったく気にせず地に足をつけた彼女は、女性に駆け寄り渡す。
飢えを体験し食べ物のありがたさを知った、彼女なりの精一杯の恩返しだった。
しかし、一連の行動は『悪魔の本能』だったのかもしれない。
男性は、彼女を瞳に映す。憎しみを瞳に宿して。
一方の彼女は、何をそんなに男性が怒っているのかを理解できないまま笑った。笑うと、女性は笑い返してくれたから。物乞いをしていたときも、くれた人に笑えば誰でも笑みを返してくれたから。
男性の言葉に、女性は視線を伏せた。赤い実と悪魔の関係を、なぜか今頃になって思い出したのだろう。
悲し気な瞳とは反対に、意志のこもった声が聞こえる。
「そうだとしても」
女性の声はちいさいが、はっきりと強い口調で狭い部屋に響く。
「私は、この子を守りたい」
「置いていけ」
間髪なく、強い否定はなされる。
瞬時、女性は口を閉じた。
元来、彼女は命尽きる運命だった身。今は生きていても、女性が天界へ還れば命尽きる。
数日は生きるかもしれないが、また地に這いつくばるようになるのは明白だ。
ただ、女性はすでに大神の意を背いている。
生きた人間を連れ還って咎められようと、何を恐れるかと女性の思考は最悪な方向へ舵を切られていたのかもしれない。
女性はグッと拳を握る。そして──。
「それなら、私は還らない」
男性の意見を拒絶する。
今度は男性が口を閉じる。
女性の意思がなくては、男性は天界に還れない。
男性は諦めるように息を吐く。あとは大神の意見を仰ぐしかないと、腹を括る。
「わかった。……好きにしろ」
渋々だ。
何だかんだ言っても大神は己の顔に免じて大目に見るだろうと、男性は思っていた。
あんな事態になるとは思わず。
こうして男性は彼女を連れて還ることを了承した。




