【序─3】告げられた始動
「これより『女神回収』のプログラムを発令する」
天界が傾いたあとの大神の宣告を、義憤の神は知らない。
一瞬の大きな揺れのあと、天界は大神の命によって均衡は再び保たれた。天界の均衡を強制的に保てる十干によって。
木を司る甲、 乙を始めとし、 火を司る丙、丁。土を司る戊、己、金を司る庚、辛、そして水を司る壬、癸。
それぞれは陽をあらわす兄と、陰をあらわす弟で対となっていた。彼らは天界にいるが、神ではない。神になる修業を積む、精霊体である。
大神は各方位に着いた十干を見渡す。視線の先、一番遠くに居るのは癸であった。
大神は笑みを浮かべると、発する。
「『月と太陽の神』よ」
よりによって、大神が指定した者は、義憤の神がいけ好かない者だった。
ともあれ、義憤の神のとった行動が、愛と美の神のとった行動が、天界にいた者たちすべてに影響を与えてしまったと言っていいのだから、仕方ない。
けれど、愛と美の神の言動を、義憤の神の言動を、止めるには──いつまで遡ればいいものか。
愛と美の神は、『神』という称号を失うということを願っていたのかもしれない。
それを、義憤の神はいつからか、薄々感じ取っていた。
「私を切りなさい」
歩き始めた愛と美の神が、振り向かずに義憤の神に告げのは、別れだったのか。
ゆっくりと歩いていく愛と美の神の後ろ姿を見て、義憤の神は立ち止るのではないかと──願っていたのだ。
だが、立ち止まることはなく。
義憤の神は走り出す。
「そんなこと……できるか!」
「行ってはならん!」
義憤の神は、大神の叫びをないものとした。
大神の意思に、愛と美の神と同様に背くのだ。今更、従う気はない。
義憤の神の特権は、愛と美の神に託してある。ともに堕ちたが最後、そんなことはこの際、どうでもいい。
どこまでも、ともにあると誓ったのだ。
愛と美の神の抱いていた葛藤を、薄々気づいていた。
大神に背き、天界に連れてくることを了承してしまった。幼女といる姿を見て、止めきれなかった。
あまりにも、幸せそうで。
義憤の神は『戦いの神』だったころ、他の神々が語る感情など自身にはないものだと思っていた。
それが変わったのは、妻となった女神の生命の一部を受け取ってからだ。
女神の生命の一部から伝わる感情はうっすらとしたものだったが、戦いの神にとっては強く、大きく感じるものだった。
悲しみを知り、憐れむことを知り、そして、喜びを知った。
恋愛の末に結ばれた他の神同士の結婚とは違う。互いに惹かれて、求めて結ばれたわけではない。
他の神々のように想いを通じ合ったとしても、それは互いの破滅を招くだけ。
だからこそ、義憤の神は妻である愛と美の神に対して、戦いの神であったころと同じように接し続けた。
変わらず周囲からは慄かれ、自身も冷たくあり続けた。
妻をいくら愛しく思おうが、抱き寄せも触れもしなかった。やさしい一言を、言うことさえも。
愛と美の神を止められなかったのは、自身のせいだ──と、義憤の神は天界から足を離す。
役目に向かったとき、これまでと変わらずに続くのだと──いや、そんなことさえ考えもしなかった。
役目を終えたとき、天界に戻るまでには、これまでと同じようになると思っていた。
天界へと戻るとき、もしかしたらこれまで通りにはならないかもしれないと、頭の片隅で悔いた。
天界へ戻った義憤の神は、今回も役目を遂行してきた旨を大神に伝える。
大神は義憤の神のとなりにいる愛と美の神を見て、深いため息を吐いた。
「悪魔とともに、赤い実をかじってしまったか……」
大神の嘆きを聞いても、義憤の神は『やはりか』としか思わない。同時に、この狸親父が、と思う。
大神もまた、愛と美の神の変化に気づいていたのだ。恐らく、義憤の神の変化にも。
愛と美の神は、幼女を大神から庇うように抱き寄せた。それを見て、愛と美の神が悪魔の奴隷と化してしまったと、大神は判断したのだろう。
「悪魔の神上がりを、私が許すわけにいくまい」
重い声がずっしりと響く。
義憤の神は直感で畏怖を感じ取る。大神は、愛と美の神の腕の中にある生命体、そのものを消す気なのだと。
義憤の神は目を見開き、愛と美の神を見る。けれど、すでに愛と美の神の恐怖は、腕の中の魂と離れることかのように──強く、守るように幼女を抱き締めていた。
そして──。
「それなら」
庇う腕により力が込められ、愛と美の神の体が恐怖で微かに震えた。
「私は……この子とともに地に堕ちます」
愛と美の神は、そう宣言した。




