【37】回顧──弐(3)
頭の中では、このまま追い詰められて死を待つだけだとも思っていた。膠着状態を破るタイミングは大臣に任せ、そのあとに続くのが無難だとも思っていた。
だが、そんな考えはいつの間にか遠くに追いやられ、瑠既の意識は遠い。自然と体が動き、侵入者を仕留められると当然のように考えている。
鞘から抜いた剣を使い慣れたかのように扱い、轢を通り越す。
攻撃体勢をとった侵略者に対し、大臣も攻撃体勢へと変わる。ただし、背後の気配に、大臣が気づかぬわけはない。
大臣は身を挺してでも、動いた者を庇うつもりだったのだろう。一歩右に体を移動させ、瑠既を阻む──ようにしようとしたが、わずかに瑠既の行動の方が早かった。
大臣の肩を右手で阻む。
直後、瑠既は左腕を下から伸ばす。
ふしぎと侵略者の動きが見え、体が動いた。伸びてきた剣を軽やかに弾き、流れるように振り上げ、切り込む。血飛沫に止まらず、また腕を伸ばし今度は峰で邪魔だと言わんばかりに払いのける。
ドサッと音がし、静寂がやってきた。
「多勢に無勢だと来たのか。ふっ……笑わせてくれる」
払いのけた躯を見下げ、心底不愉快だと鼻で笑う。
初めての感覚のはずなのに、空しいほどに命は軽かった。
「この程度で、鴻嫗城を制圧した気分を……一瞬でも味わったんだろ?」
顔を上げれば、侵入者たちは後退し、震えている者もいる。
「来いよ」
血塗れた顔を瑠既は拭おうともしない。
「悪いが、俺たちは負けねぇよ?」
侵略者を挑発する瑠既に続き、大臣が笑った。
「そうですね。申し訳ありませんが、私たちは負けません」
右前方に立つ瑠既を、大臣は沙稀のように感じていたのかもしれない。
それとも、繊細な動きを幼いころに失った沙稀が、それを取り戻したかのような幻覚を見ているようだったのかもしれない。
「ほら、俺の首を取れば『鴻嫗城を堕とした』って証拠になるんじゃね?」
侵入者の目的を煽るかのように、瑠既は挑発を続ける。すると、ひとり、ふたりと光をなくした瞳が瑠既を捉えた。
何時間が経過したか。羅凍が姿を現す。
その手には庾月がしっかりと抱かれていた。羅凍は羅凍の責務を必死に担ったに違いない。
けれど、瑠既が浴びた血飛沫の量に驚いたのか。立ち止まり息を呑んだ。そんな様子の羅凍に、
「お疲れさん」
と、瑠既は肩に手を乗せ、その場を去る。
シャワーを浴びながら侵入者を排除していった感覚を振り返る。自我ではなかったような、自我。実感していたのは、本質だ。
誰かが憑依した、沙稀が、自身が願ったから──そういうことにしておければ、内なる何かに気づかずにいられる気がした。
双子の弟に感謝をすれば済むことで終われる。だから、そう流そうとあたたかい雨に包まれ、願っていたのに。
シャワーを浴び、気持ちの整理をしようとバルコニーで星を眺めていたら、ひとりの男がやってきた。
ザラザラと心地の悪い記憶が混じり、知らないはずの欠片がバラバラと無造作に残った。
『双子シンドローム』なんて、いつから都合のいいように解釈をしていたのか。
一日を振り返りながら、さほど遠くない道のりを瑠既はやけに遠く感じ歩いていた。
今の気持ちのように、どこかに迷い込んでしまった感覚に包まれる。
足を止めて見渡せば、高い天井。円柱の数々。そして、壁には美しく刻まれる彫刻たち。
間違いなく生家であり、鴻嫗城であるのに──似た空間を、知っている気がする。
心が拒む。
思い出したくはない、決して。
呼び起こしたくはない、決して。
心の奥底に潜むのは、魔物か、獣か、それとも──。はっきりとしているのは、沙稀を見放せないということだ。
女神を、見捨てないと誓ったことだ。
恭良の部屋の扉の前に立ち、おもむろにノブを回す。すると、扉はスルリと開いた。
避難していた部屋から自室に戻ってきた確証はない。けれど、あの惨事の場所に身を置いているとも考えにくかった。
扉を閉め、奥へと歩いていく。薄暗い室内で基調としている白が不気味に見える。
寝室まで進み、人影が見えてきた。
「お兄様のせいよ」
瑠既が来ると知っていたかのように発せられた声に、ドキリとする。未だ幼さを残す声は、間違いなく恭良だ。
瑠既は足を止めない。
天蓋の白いレースが、ベッドに座る恭良の背をゆらりゆらりと時折隠す。
「俺のせい?」
不快な言葉を繰り返し、瑠既は天蓋の白いレースをめくる。
「何も覚えてないのか。それとも、都合のいいように忘れたのか? 俺はな、お蔭で思い出したよ」
蔑んで言うが、恭良は振り向きもしない。うつむいて微動だにもしない。
「沙稀が堕ちたのは、お前のせいだ」
怒りで瑠既の鼓動は高鳴る。今にも震えだしそうな瑠既の気配を感じていようとも、反論すらない。
瑠既が憎々しいと見降ろし続けていると、
「愚かな人」
と、恭良はポツリと呟いた。
「愚か者はお前だろ!」
怒りがあふれる。だが、その直後、
「あははははははは!」
と、気が狂ったように恭良が天を仰いで笑い始めた。それはそれは楽しそうに。
咄嗟に瑠既はベッドに乗り上げ、右手で恭良の肩をつかむ。振り向いたクロッカスの丸い瞳が、瑠既を映した。
「俺はお前を許さない」
今にも押し倒しそうな勢いで言ったにも関わらず、恭良はまた笑い始めた。
異様な光景だが、瑠既に引くつもりはない。恭良の気を引く事柄は、嫌というほど知っている。
「沙稀がお前といたいと言うのは、単にお前のしたことのせいだ。……お前が手離せば案外、あっけなく俺のもとへ戻ってくるかもしれないぞ」
思った通り、沙稀の名を出した途端、恭良は瞳を見開いた。
聞きたくないと示すかのように、笑い声が大きくなる。
「恐くてそんなことは試せないか。……哀れだな。俺は、アイツを俺が切るまで何回転生をしようがその度に会うのは確約されている。でも、お前は必死だよなぁ? 手に入れきれてないんだろ?」
恭良の声が大きくなるにつれ、瑠既の声が強まる。そして、聞けとばかりに互いの顔の距離も近づく。
「戻れなくても俺は構わない。そのくらいの覚悟はとっくにしている。だけどな、アイツをお前と一緒に堕ちさせるわけにはいかねぇんだよ」
瑠既の脳裏には知らないはずの景色が浮かぶ。
ちいさな、隙間風の入る家。
幼子を抱きかかえ、あやしている少女の後ろ姿を見つめ──扉を閉めた。
涙が落ちた。
泣いていると気づかれてはいけないと歩き出したが、最後に見た白緑色の長く美しい髪の毛の色は、どれほど歩いても忘れられなかった。
思えば、あのとき──瑠既の後悔の念は膨らむ。
「アイツの命が尽きれば、俺の命も尽きた。それは今生でも、変わらないはずなのに……」
選択肢がないと思って決断した過去。けれど、その思いこそ間違ったものだったのかもしれないと、瑠既の後悔は止まらない。
堕ちることを選んだときは、確かに手放さないと、つかむと、諦めないと誓っていたのに。
ふと、恭良が楽しそうに歌い出す。
それは、少女が幼子に聴かせていた子守唄。
瑠既の思いを手に取るような言動に、感情が荒ぶる。
「今回はどうしてだ! お前、アイツに何をした?」
責めるように、恭良の歌声が大きくなっていく。
瑠既は恭良を大きく揺さぶる。そして、再び引き寄せ瞳を合わせて言葉を吐く。
「俺は騙せないぞ。……イカレたふりなんかしやがって」
ピタリと恭良が歌うのをやめた。
だが、その声は実に愉快だと言いたげなケタケタという異質な笑い声に変わる。
寒気がして、瑠既は咄嗟に恭良を手離した。そうして、先程よりも遥かに昔の残像が浮かぶ。そう、あれは──。
瑠既の眉間にしわが寄る。──おぼろげだった記憶が繋がっていく。
疑うような瞳をした瑠既を、恭良が冷たい瞳で映し、満足気に微笑む。
「さすがは『お兄様』……と言っておきましょうか。申し訳ないけれど、私の勝ちよ。愚か者に負けたご気分は、いかが?」
恭良とは思えないような、初めて聞いた別人のような声と話し方。今のは、冷たい笑みが妙に合う、大人びた声だった。
恭良はずっと舌足らずが抜け切れないような話し方だった。それは、いつでも。瑠既には憎らしい声だったが、一般的には甘えたようなかわいらしいものだと表現して相違ない。
だが、まったく異なるものを聞き、どちらが『本来の恭良』なのか、判断を誤りそうになる。
「やっと、本性を出しやがったか」
瑠既は顔を歪め立ち上がる。
「誄姫を味方に付けたと思って、いい気になるなよ。誄姫は……」
「あら、それを言うなら、忒畝様もよ。……『思い出した』のでしょう? 『お兄様』」
にっこりと妖艶に恭良は笑う。そして、閉じて微笑んだ唇が、再び動いた。
「また、来世でもお会いしましょう」




