【35】回顧──壱(2)
聖域を犯した者に問いを投げかける。
漆黒の美しい髪を持つその者が、ビクリと体を震わせた。
彼女が見つめていても、返答はない。宝石のような漆黒の瞳が、彼女と同じように見つめてくるだけだ。
ただし、光をまとうような漆黒の瞳は、彼女を拒むように揺れている。
この漆黒を持つ美しい男を、彼女は何十年も前から知っていた。
彼女の愛した彼の、友人だった男。──厄介な存在だった。闇に沈んでいきそうな色彩を持っているのに、この男は神の加護があるかのようにまばゆい。
かつて、この男との婚約話があった。誰でもいいと思っていたにも関わらず、一目見て頭が真っ白になるほど──気に入らなかった。
不安でいっぱいになるほどパニックになり、『まだ結婚したくない』と縁談を破棄したのに。
この男と彼の縁は続き。彼が死しても、この男と彼の縁は切れなかった。
しかし、今は彼がいない。
プツリと何かが切れたかのように、彼女には違う感情が芽生える。
彼女自身といたからこそ彼は苦しんだと、ずい分前に忘れていたことを思い出すかのようにこれまでを振り返る。
視線は下がり、彼と一緒にならなかった方が彼にはよかったのかもしれないと、何十年も前の──それこそ、この男と縁談があった当時を悔いる。
「私、貴男と結ばれていたら……普通の女の子に戻れたのかしら」
失望した言葉を発しながら、遠い遠い過去が砂嵐に混ざり浮かぶ。
憎まれ、蔑まれながらただ死を待った日々。惨めで汚らしくて、愚かだった。それでも死を恐れ、拒み、生にしがみ付いていた。
恐ろしいほどの孤独。
そんな孤独を知りはしないだろうと、彼女は羨望の眼差しを向ける。
「貴男、男の人なのにきれいね」
ふと、彼女は微笑む。
脳裏に映るのは、砂嵐が混ざる断片的光景──地に顔を、手をつけ、羨ましく人々を見ながら死を待つ、みすぼらしい己の姿。
この男は、そんな地獄を恐らく知らない。まばゆい光を放ち続けるほど、無垢だ。──きっと彼は、この男に救われ続けていたに違いない。
だからこそ、彼を手に入れることが、できなかったのだ。
そう思った瞬間、ザワザワと湧き上がる感情を知る。けれど、その憎しみを握りつぶせるほどの悲しみと諦めが覆いかぶさる。
今更、感情をどれだけ荒立て、濁したところで彼を手に入れることはできないのだ。
ここまで来て会えなかったのであれば、金輪際会えないかもしれない。
諦めの境地に立った彼女は、漆黒の瞳を持つ男に手を伸ばす。逃がしてやろうと決めた。
その瞬間、男は咄嗟に後退をした。怯える姿に、彼女は冷たく笑う。
「大丈夫。今更……何も望まないわ」
このまま、この男を道連れにするのはかんたんだ。だが、彼女はさんざん邪魔をしたこの男を許すと決めたのだ。
彼の、大切な友人だったから。
連れていこうと考えていた息子を手放した理由と似ている。彼を手に入れられず息子を連れていこうとずっと思っていたが、もし彼が生きていたらと考えたとき、置いていくと決めたのだ。
彼がもし生きていたら、娘と同じように深い愛情を注いだだろう。死に直面するまで、そんなことに頭を回せなかった。彼の目があれば、娘のように愛するふりをできたかもしれないのに。
「返してあげる。だから……もう、ここには来ては駄目。迷ってでも、入り込まないで。聖域だから」
彼女はゆっくりと歩き出す。
ここは、彼が特別だと言った場所。『彼の聖域』だった場所だ。そう思えば、彼女はまた目の前の男に腹が立ってきた。
男はその場から動かずにいたが、『早く』と言うと、恐れるように彼女に従った。
慌ててこけそうになったが、すぐに体勢を立て直し一目散に逃げていく。男の背を見送り、彼女は安堵のため息を吐く。
──これが……今、私にできる、せめてもの償い。
白いドレスを見れば、真っ赤に染まったように見えた。
だが、上から次第に赤みが消えてく。
彼女は驚き振り返る。こんな魔法は、彼にしかできないと。
──沙稀だ。……やっぱり、待っていてくれたんだ!
手に入れることはできなかったが、今は見えないが、彼が確かにここにいると彼女は確信し、涙を流した。
しばらくして、彼女の魂は肉体から離脱する。悲しみに暮れる娘を横目で見、命がけで産んだ息子の横を無関心に通り過ぎた。
彼女の魂が辿り着いた先は、あの聖域だ。
そこに、彼女が憧れた人物がいた。初めて会ったときの姿で。
姿を見た瞬間、彼女の乾ききった心が揺さぶられ、涙があふれた。本当にいてくれたのだと、うれしくてうれしくて想いが込み上げる。
駆け出す魂は、次第にちいさく細くなっていく。
「……っ、……きぃ!」
ちいさなちいさな両手を伸ばし、彼女は遠くなったような距離を少しでも縮めようと、もがき懸命に走る。
正確な名は知らない。けれど、知っている名を彼女は呼び続ける。
憧れの人の周囲には、煌びやかな光が弾けて舞っている。彼女を待っていた人物は、屈んで彼女を受け止める体勢をとった。
「……き、会いたかった!」
彼女が胸に飛び込むと、光は弾けて更にちいさくなった。
長く、美しい髪だ。光が輝かしく照らしていて、固有の色を表現できない。ただ、微笑む表情もとても美しく、その姿はまさに女神。
「悲しませてごめんね」
やさしく抱き締められた彼女は、懸命に首を横に振る。
「ううんっ、ぅんん……待ってて……待っててくれたからっ!」
「約束したでしょう? もう、独りにしないって」
途切れる言葉を、やわらかい声が覆う。
彼女は抱き締められ、頭をなでられ、悲しみが消えていった。
こんなに幸せなのは、いつぶりだろう。すべての苦しみ、悲しみを浄化させるほどの慈愛に、ただただ恍惚とする。
「行こう。……大丈夫。この手は、離さないから」
キラキラと降り注ぐ光を、彼女は癒しのように全身で受ける。見上げて涙を流し、そして、
「うん……」
と、赦しを乞うように言う。
誓いを契るように、ふたりの手は強く握られる。
眩しいほどの光がふたりを覆い、ふたりは強い絆を持ちながら輪廻の輪へと旅立つ。




