【35】回顧──壱(1)
庾月が二歳になって数日後のある日のこと。
恭良は自室で庾月に昼食を食べさせ終え、ふと、扉が開いた気がした。
視線を上げ、遠くの一点を見つめる。
ノックをせず部屋に入ってくるなら、沙稀だと見当は付いている。けれど、恭良は沙稀の姿が見たくて娘から視線が動いていた。
そうして遠目に確認したのは、想定通り沙稀の姿。恭良は一緒に昼食を食べられるのかもしれないと期待する。庾月が産まれてからは、昼食を一緒にとれる方が珍しくなっていた。
近づいてきた沙稀は、恭良と視線が合うなりやわらかく笑みを浮かべる。
「庾月……起きている?」
愛娘の様子を伺うように言う沙稀に、恭良はうなずく。
ほぼ同時、沙稀の声にピクリと耳を大きくした庾月は立ち上がり、囁き声の方へと走り出す。
恭良の視線に庾月が入り込み、流れるように動く。恭良は慌てたが、庾月が向かった先は沙稀。
沙稀は両手で娘を受け止め、大事そうに抱き上げた。満面の笑みで愛娘に応えている。
一方の恭良は、沙稀とは対照的な気持ちになる。
──マントは嫌いなのに……。
恭良が子育てに時間を割くようになった昼間、沙稀は補うように公務を増やした。立場上、公務のときはマントを身に着けることがある。
だが、公務が終われば、すぐに外していたはず。
揺れるマントに、恭良の唇が開く。
「ねぇ、沙稀……ご飯まだ……」
「とれるときに、とるよ。うれしい。心配してくれるの?」
『それはそうよ』と恭良は言いたかった──が、言えなかった。あまりにも幸せそうに沙稀が笑っていて。少し痩せたように見えた姿にさえ、恭良はきれいだと心を奪われる。
「結婚してから幸せすぎて体重が増えたから……戻ったくらいだよ」
沙稀は恭良の心を読んだかのように、そう告げた。
不満を恭良が表情から消せなかったからか、庾月をそっと沙稀が抱かせてきた。そうして、
「少し……いい?」
と、どこかへと誘う。
恭良はきょとんとしてうなずき、微笑んだ沙稀に付いていく。
しばらくして目の当たりにした光景に恭良は驚く。沙稀のあとを歩いてきただけなのに、すっかり知らない場所へと来ていた。
恭良は生家で迷った感覚に陥ったが、前を歩く沙稀の背に迷いは感じられない。
──どこに行くんだろう……。
知らぬ場所にいつ踏み込んでしまったのか。恭良は気づかなかったと考え込む。
「疲れた?」
無口になっていた恭良を気遣う声がした。
「ううん。ただ……」
見慣れない光景を見ながら、恭良の声は消える。
「もうすぐだから」
やさしく言う沙稀が、光に包まれているように感じ息を呑む。恭良には現実ではないような感覚で──でも、怖くはなかった。
沙稀の言う通り、それからほどなくして淡い光が見えてきた。その光へと近づく沙稀の姿は吸い込まれていくようで、恭良は置いていかれないようにと足を止めずに踏み込む。
何本もの柱が立ち並び、アーチを支えている。中央には噴水のような物が見えた。近づけば静かな心地よい水の音が響いていて、何ともふしぎな空間。
全体的に青白く光って見える。
広がる淡い光に、言葉がこぼれた。
「ここ……」
城内とは信じられずに恭良は見渡す。
庾月をおろし見上げると、どうやら中央は吹き抜けになっていて、天井からの光が噴水を照らし淡い光が舞っているように見えているらしい。
「ここに、ずっと……三人で来たかった」
沙稀の声が、水の流れる音に乗って聞こえた。
先ほどまで背を向けて噴水を見上げていた沙稀が、屈んで庾月の頬をなでている。
恭良の脳内処理が追いつかないのか、フワッとあたたかくやわらかい空気に包まれた。
「継承者にしか伝えられない、聖域なんだ」
フワッと恭良を包んでいたのは、沙稀だった。けれど、それは刹那で。恭良が認識したときには、肩に手を回した沙稀はスッと歩き始める。
促されるまま恭良も歩き、噴水の目の前で立ち止まる。沙稀は振り返り、庾月を抱き上げた。
差し込む光がふたりをやさしく包む。その姿は幻想的で、恭良は夢のかのように眺める。
輝くふたりが縁遠く見え、恭良は自身も光の一部になれたような気がした。
強い憧れを、ふたりに一瞬で抱いていた。
だが、そんな幻覚はすぐに消える。
沙稀が、庾月を恭良の腕の中に戻してきた。それから肩に伝わった温度。
やさしい温度が恭良に現実を取り戻させる。
「ごめん」
唐突な沙稀の謝罪に、恭良は目を丸くする。
時々、恭良には沙稀の言うことが難しい。難しいというのは比喩で、難しい言葉を沙稀が使うわけではない。ただ、言っていることを理解できないのだから難しいと解釈しているだけだ。
沙稀が何に対して謝りたいのか、いくら考えても恭良にはわからない。
恐らく、何についてかと聞いて答えてもらっても、恭良には理解できない。
結局は理解できないことだと、それだけは理解できているから、恭良は訊ねることをしないで言葉を紡ぐ。
「ううん。とってもきれいな場所」
恭良は、娘を抱きながら沙稀の胸に体を委ねる。
「すてきね、ありがとう」
ギュッと恭良は抱き締められ、幸せいっぱいになる。
沙稀の強くやさしい抱擁は、何ものにも代え難い幸福。癒し、そのものだ。
浄化と例えても、恭良にとっては適切だろう。
それから、十八年ほどの月日が流れた。
恭良は真夜中に部屋を抜け出す。命がわずかであると悟って。
余命がどのくらい残っているのかは、彼女にとってすでにどうでもいい。ただ、命が途切れる前に、どうしても行っておきたい場所があった。
裸足で廊下を歩いていく。
白いドレスが、ふわりふわりと揺れる。
彼女が向かった先は、『継承者にしか伝えられない、聖域』と沙稀が言っていたあの場所だった。
「沙稀?」
ここに、沙稀がいる気がしたのだ。噴水のような場所をゆっくりと一周したが、探す者の姿は見当たらなかった。
彼女は一周した場所で立ち止まり、座る。
待っていたら、いると感じた人が来てくれるかもしれないと思い、信じた。
そうして彼女が待ち、どのくらいが経ったか。彼女は誰かの気配を察する。背筋を伸ばすように立ち上がり、待ち遠しいのに柱の影に隠れ、そっとのぞく。
期待と不安が混ざった直後、彼女からは表情が消えた。瞳は虚ろになり、冷たいものへと変わる。
恭良は微かに笑った。聖域を汚す者を一緒に連れていくのも、悪くはないか、と。
「貴男は……今、幸せ?」




