【33】長い幸せの(2)
窓を開けるなり轢は言うが、ピッと唇の前で人差しを指一本伸ばした颯唏の行動を見、言葉を止めた。けれど、颯唏の次の行動にまた轢は驚きの声を上げそうになる。
何と、颯唏は窓に手をかけ膝を乗せている。轢が驚いている間に靴の土を器用に叩いて華麗に室内に着地。
最後には得意げな表情を浮かべた。
轢は眉を下げ笑う。
「行儀が悪いよ」
すると、颯唏は真面目な顔つきに変化した。
「轢兄と、話があったんだ」
颯唏は真剣な眼差しで轢を見る。颯唏の急激な変化に轢は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに微笑んだ。
「蓮羅様のこと?」
無言で颯唏が首肯する。
轢は見通すかのように、うんうんとうなずいた。
「俺も颯唏と話さないとと、思っていたよ」
「えっ?」
まるで用意されていたかのような返答に、今度は颯唏が驚く。だが、轢の返答は、意外なものだった。
「蓮羅様が連絡をくれて。……驚いた。麗を跡取りにって思っているって聞いたから……」
颯唏は息を呑む。
「それでね、俺たちが思案していたことを話してみたんだよ。そうしたら……」
今度は颯唏が驚く番だった。耳を疑うように聞き入り、信じられないというように呟く。
「それって……」
「ね、まさかと思って聞き返しちゃったよ」
轢は苦笑いを浮かべる。
蓮羅の話は、轢と麗の挙式後、黎と愛娘とを連れて鴻嫗城へと来ると言うことだった。
漠然と颯唏は、轢の部屋に来るのは最後かもしれないと思う。昔から、何度も来ているわけではない。
日頃は轢が鴻嫗城へと来ている。
それでも、物心ついたころから来ていた場所に来るのが、これで最後だと思うと妙に寂しい。
轢との思い出が、ここにもたくさん詰まっている。
「俺を愛してくれたのは、轢兄だけだったのかもしれないな」
ふと、そんな言葉がもれた。
「だから、寂しいよ」
「今生の別れみたいに言わないの」
轢が笑う。
「どんなに距離が離れたって……いつでも会えるよ。会いに来るよ」
轢の手は颯唏の頭へと伸びたが、意識的に轢は手を下げた。そして、左肩にポンと手を置く。
「颯唏は、俺の『弟』だから」
轢のやさしい笑みを見て、颯唏の表情は自然とやわらかくなる。
「ありがとう」
颯唏は何度も何度も、轢のこのやさしい笑みを見てきた。
いつも轢は、颯唏をやさしく見てきてくれた。
だから、離れて寂しいと思うのは、颯唏だけではないと知る。
「ねぇ、轢兄が羅暁城に向かうときは……」
「立ち寄るよ?」
重なった轢の声に、颯唏は口をつぐむ。
『絢朱まで行ってもいい?』と言おうとしていたのに、轢は颯唏の言わんとすることを知っているようだった。
「絢朱に向かう前に、鴻嫗城に。颯唏が途中まででも一緒に来ると……本当に今生の別れになりそうで、嫌だから」
颯唏を甘え続けさせないように、轢も離れられるように、こう言ったのだろう。
だから、颯唏は言おうとした言葉をないものにした。
「しょうがないな。結婚式には呼ぶし、行ってあげる」
「うん。よろしくね」
轢がうれしそうに笑う。
颯唏も口角を上げ、長い幸せの終わりを噛み締める。
二ヶ月後。
轢が改まった装いをして鴻嫗城を訪れる。
第二の家のように何度も訪れていた鴻嫗城を、感慨深そうに轢は見上げる。
そうしているうちに、颯唏が姿を現した。
「先日、伯父上が綺に行ったのに……会わないで行くんだ」
『ん~?』と言った轢は、
「誰に?」
と、わざとらしく言う。
その笑顔が妙に憎らしく、颯唏は今まで避け続けていた呼び名を使う。
「義兄上に、だよ! 姉上と大臣は今それで楓珠大陸から……あと数日くらい、いや、一日くらい待っててもよかったんじゃあないの?」
不満を言う声を徐々にちいさくした颯唏に対し、轢は変わらぬ笑顔を浮かべた。
「あ~! 安心した!」
「はぁ?」
「颯唏、『義兄上』って言うの……避けていたでしょ?」
楽しそうに笑う轢に反し、颯唏は顔を背ける。
図星だ。
颯唏にとって『兄』は、轢を表わす言葉。
しかし、それでは姉を困らせると自覚している。
だからせめて、轢の前では使いたくなかったのだ。
顔を曇らせた颯唏を見、轢は再び口を開く。
「ほら」
その声はとても明るく、颯唏に幼いころに戻ったような感覚を呼び起こす。
轢は颯唏にとって、いつまで経っても兄のような存在だ。
「幸せになるんだよ。……俺も、これまで以上に幸せになるから」
輝いて見える轢に、颯唏の瞳は潤む。
「そうだね」
うつむいた颯唏に対し、轢は城外へと歩き出す。
遠のいていく轢の背を見、颯唏は感極まる。
幼いころ颯唏は、轢が庾月を想っていてくれたらいいと願っていた。
その願いは、独りよがりなものだと思っていた。
だが、年末の轢の提案を聞いて、轢は庾月を想っていたのだと知ってしまったのだ。
庾月の想いを否定する気はない。
ただ――。
遠くなっていく背中に、颯唏は走り出す。
「轢兄!」
悲痛な声に轢は立ち止り、振り返る。
「愛してるよ~~~!」
颯唏の叫びに轢は手を大きく振り、何かを言った。
轢の声は聞こえなかったが、いつものやさしい笑顔が見られただけで颯唏は胸がいっぱいになった。
颯唏は手を振り返さなかった。
轢は、それでいいと言うかのように手を下げ、正門へと歩いていく。
更にちいさくなっていく轢の背を見つめながら、颯唏の瞳からは涙がいくつもあふれていた。
轢の背を見送って半日後、鴻嫗城は賑やかになっていた。今朝の静けさが嘘のようだ。
離れて育っていた双子の姉妹を、留が連れてきたことが大きいだろう。双子の姉妹たちは母の庾月とも、長女の夷吹とも長く離れていたのだ。懐かしい再会と、今後一緒にいられる喜びで子どもたちは大はしゃぎしている。
颯唏は、しばらく庾月たちが親子水入らずの時間を過ごすだろうと思っていた。
特に留は、綺で追われるような日々を過ごしていたはず。だからこそ、鴻嫗城に来て少し休むと予想していたのだか──留も庾月も休暇を一切要望しなかった。
いや、留に関しては休むことを知らないと言っても過言ではない。時間に糸目をつけず、業務を精力的にこなし続けている。
かと言って、子育てにも手を抜いていない。食事の時間は家族団らんをとる。業務以外の時間には、子どもたちのところに駆け寄って一緒に遊んでいる。
そんな様子を目で追ってしまっていた颯唏はある日、留を訪ねる。
「少しは、休んだら」
疑問系でも敬語でもなく言ったのに、
「昔から染みついた癖みたいで……寛ぐって、できなくて」
と苦笑いを浮かべ留は言う。
となりでは朗らかに笑う庾月がいる。
そんな光景を見て、颯唏は何となく姉が留に惹かれたのがわかった気がした。
やはり、姉が幸せそうに笑ってくれる以上のことはない。
「よかったね、姉上」
颯唏がしんみり言っても、庾月には満面の笑みが咲く。同じように颯唏が笑い返す前に、双子の姉妹に囲まれた。──この子たちに『人見知り』という言葉はないらしい。
『お兄ちゃん遊んで』と言われたら、颯唏も悪い気はしない。
颯唏も鴻嫗城を出る時間のカウントダウンは開始されている。どうせなら、とびきりの思い出をたくさん作ってあげたい。
「よし、いっぱい遊ぼう!」
颯唏が微笑み返せば、可憐な花が咲き誇る。留が申し訳なさそうに颯唏を見たが、颯唏はわざと気づかないふりをした。




