【33】長い幸せの(1)
鴻嫗城に帰城した颯唏は、大臣の部屋にいた。予定通りに羅凍を帰した旨を伝える。
大臣は胸をなで下ろす。羅凍のことは、兼ねてより大臣が気にかけていたことだった。
颯唏には蓮羅の話を聞き、浮かんだ疑問があった。轢から聞いていた話と食い違う点だ。
疑問は懸念に変わる。
「轢兄が、何かしくじったかもしれない」
「轢様が?」
大臣は驚き、颯唏はうなずく。
「蓮羅様は、『羅暁城は妹君が継ぐ』とおっしゃっていた。そんな話……轢兄から聞いてない」
颯唏の視線は下がっていく。
この間、轢は結婚してしばらくしたら妻を連れて鴻嫗城に来ると言っていた。そのころはちょうど、颯唏の挙式にあたる。
颯唏の挙式のあと、轢は鴻嫗城の剣士として残るつもりだと話していた。だからこそ、『鴻嫗城に護衛となる剣士の長期不在はない。羅凍を帰城させよう』という轢の提案だった。
もっとも、羅凍の生家が羅暁城だと轢が知ったのは、姉の黎が蓮羅と結婚し、数年後だったらしい。姪が産まれ、羅暁城へと行く頻度が増え、義兄の蓮羅との交流も深まった。
そうして、轢は麗と出会う。蓮羅のいとこだと紹介を受けた。
いや、出会ったのは、黎が結婚してからすぐだったが、特に話したことはなく。しかも麗は九つも年齢が下で、人見知りが激しかった。轢が男だからという理由ではなく、黎の瞳もまともに見られないほど激しい人見知りだった。
変わったのは、姪が産まれてから。
姪のことを通じ黎と話せるようになった麗は、蓮羅を介して話せるようになった。話す機会が増え、麗は轢を兄のように慕ってきた。
麗は颯唏と年齢が近いこともあって、轢は妹のように接してきた。颯唏と麗を会せたら、いい仲になるかもしれないと想像したほど。
それなのに、麗への想いはほどなくして恋だと気づく。当時、麗はまだ十四歳。轢自身が驚き、戸惑った。
しかし、颯唏に背中を押され、数日考えた後に轢は行動を起こす。
麗に会いに行き、そのときに意外な名を聞いて驚いた。麗が会ったことがないと聞いた『父の名』は、轢がよく知っている人物の名だった。更に、麗は言う。蓮羅とはいとこではなく、実の兄妹だったとも。
聞いてはいけないことを打ち明けられた轢は悩み、黎に相談をする。黎も蓮羅から聞いていたようで、羅凍を羅暁城に戻そうとなり、機会を図っていた。
轢は今回の件を麗に話す。すると告白を逃していたが、歓喜した麗に『大好き』と飛び付かれ──予想外の展開ながら、ふたりは婚約に至る。
羅凍は娘の婚約も、その相手も耳にしていないだろう。これから耳にするかもしれないが。
「もしかしたら、轢様も……蓮羅様のご意向をご存じではないのでは……」
「そうだね。このままじゃ、轢兄の提案が駄目になる」
轢は颯唏の剣の師匠でもある。未だに颯唏は轢を越していない。
羅凍がいなくなり、轢もいなくなる前提で颯唏が提案を実行したのは、万が一城を攻め込まれても挙式までの間なら、自身と大臣がいれば凌げると想定したからだ。
しかし、轢が麗とともに羅暁城を継ぐとなれば、鴻嫗城に轢は残れない。
状況は最悪の方向にしか向かわなくなる。
颯唏は時がくれば涼舞城へと赴く。大臣の体調は、不安定だ。いつまでも頼りにはできない。
他に夷吹の護衛を任せられそうな人物を思いめぐらせた颯唏は、その人物を口にする。
「伯父上は?」
「瑠既様なら、綺に行かれると聞いております。ご自身のお気持ちも強いとは思いますが、留様を鴻嫗城に赴かせたいとおっしゃっていました」
そもそも瑠既が剣を握った姿を颯唏は見たことはないが、一縷の望みも消滅した。
留と庾月を、庾月たち家族をともにいさせたい。轢と颯唏、大臣が長年願っていたこと。それが叶うのは喜ばしい。
確かにそれは、瑠既にしかできない。だが、その願いが折角叶うのに、手放しで喜べない状況へ転がりつつある。
高齢の大臣だけに頼るわけにはいかないと、轢が提案してくれたのに、これでは『いつか』危険を招いてしまうと颯唏は焦る。
そんな颯唏の焦りを大臣は感じたのだろう。
「轢様と、お話をしてきてはいかがですか?」
大臣からの助言に颯唏はハッとし、うなずく。
「そうする」
沈んだ表情のまま、颯唏は大臣の部屋を退出した。
裏口への廊下を颯唏が歩いていると、瑠既に出会う。
「伯父上も……行くんだ」
ポツリと言うと、瑠既は驚いたような顔をした。
誄の両親が亡くなり、数年。――それでも、瑠既は王の間で過ごさない。実質は誄が王位を継いでいて、娘に引き継ぐのだろう。
「ああ……大臣から聞いたのか」
「うん」
「俺がいなくなっても、颯唏は寂しくないだろ?」
瑠既は日頃、庭の手入れをしていることが多い。颯唏も何度か目にしたことがある。
瑠既自身としては、綺にいたころからの名残。
だが、颯唏には不自然な行為だった。慣れた手つきで器用だと颯唏は思う反面、庭の手入れくらい使用人に任せておけばいいとも思う。きっと、誄の両親も思っていたことだろう。
瑠既だって周囲の目は感じていたはずだ。特に、大臣は口にしたかもしれない。それでも、頑なにやめなかった。理由は、颯唏にはわからない。
「それは伯父上の方が。俺がいなくても寂しくはないでしょ」
颯唏の言葉に、瑠既はきょとんとする。
「俺は、『沙稀』じゃないからさ」
昔、瑠既が鴻嫗城に残していた唯一の気がかり。――それが沙稀だった。
けれど、それを颯唏は知らないはずだ。沙稀もそう自覚していたかと言えば、否だろう。
見透かされた気がして、瑠既の瞳は颯唏を離せない。まだ伏せているはずの真実──瑠既と沙稀が双子だということ──を知っているのかと。
身内で話す機会があるとすれば、轢だ。颯唏の面倒を長い間見てきて、仲もいい。
だが、轢が瑠既に無断で話すかと考えれば、まずないだろう。
では、庾月か大臣か──誰を浮かべてみても、瑠既の耳に入らないわけがない。
「じゃあね」
瑠既の思案をよそに、颯唏は笑顔で手を振って通り過ぎる。
「待てよ!」
「何?」
瑠既の声に、颯唏は立ち止る。
ただ、振り向かない。少しうつむいた背は、追及を覚悟しているかのようで、瑠既はおもむろに口を開く。
「お前……知っているんだな?」
「何を? ……って言いたいけど。知ってるよ。……伯父上の知らないことも、色々とね」
「俺の、知らないこと?」
ハァと颯唏は息を吐き、窓に視線を移す。
「俺も知らないこともたくさんあるよ。……例えば、伯父上と父上がどういう風に過ごしたのか、とか……仲がよかったのか、悪かったのか、とか。……伯父上は父上のこと、大好きっぽいけどね」
最後にからかうように言うと、颯唏はゆっくりと振り返る。
「でも、もう終わったんだ」
真顔で言ったあと、
「だから、伯父上も……父上のことは終わらせた方がいいよ」
とサラリと言い、颯唏は瑠既の来た道を歩き出す。
廊下をまっすぐと歩き、左に曲がって一度見えなくなる。
壁から窓になり、また颯唏の歩く姿が見える。
ずっと遠ざかっていくのを瑠既の視線は追い、見えなくなったころにサラリと言われたことが脳裏を過ぎる。
──沙稀のことは終わらせろ……か。
瑠既は窓越しに澄んだ空を見上げる。
「沙稀も、俺に……そう言ってんのかな……」
出せない答えを瑠既は呟き、自らに問いかけた。
一方の颯唏は鐙鷃城に辿り着き、周囲を一瞥する。正面から訪ねていけばいいものを、スッと庭に隠れ様子をうかがう。息をひそめ誰もいないと判断してから上半身を屈め、奥へと駆けていく。
向かうは轢の部屋。壁伝いに行けば、すぐだ。窪んだ一角が目印。ヌッと窓から室内をのぞき込めば、すぐに轢を発見し目が合う。
轢は大きく息を吸った。窓から誰かの顔が見えたら驚いて当然。大きく見開いたクロッカスの瞳が、颯唏をまじまじと見る。
一方の颯唏は、日頃と変わらぬ笑みを浮かべた。轢はそれで我に返ったのか、立ち上がり窓に近づいてくる。
「こんなところで、何して……」




