【32】愛の連鎖(2)
「取り返せることではない……玄さんの、お腹の子は……」
懺悔するかのように吐露した言葉は、はっきりと言葉にならなかったが、貊羅が息を呑んだ気がした。
歪んだ視界で貊羅を見上げれば、呼吸を忘れたような表情を浮かべている。
期待はしない。捷羅はまたうつむく。
すると、あたたかい何かが体を包んだ。
「そうか……捷羅、君の苦しみは私にくれる分だけ、私が引き取ろう」
捷羅は貊羅を否定しかしないのに、貊羅は捷羅を否定しない。
「大丈夫、私が知っている。ひとりで抱え込んで苦しまなくていい」
真っ黒に塗りつぶし続けている感覚を、ずっと持っていた。
消し去りたくても自ら消えることを選べないのであれば、『最初から存在しなければ』と責めることでしか、生きてこられなかった。
たとえ双子の弟の子でも、他人の子を我が子のように愛せるほどの自信はない。
愛される自信もないから、確実な繋がりがほしかった。
玄には『詫び』として媚薬を渡した。いくら結婚するとはいえ、羅凍がすぐにその気になるとは考えにくい。
「首元や胸元に塗れば、効果があるかもしれないですよ」
噂半分で渡した物だが、後日気を沈めた羅凍の様子からすれば、効果はあったのだろう。
やさしい言葉をかけられた捷羅は、『貴男に何がわかる』と言いたくても、言えなかった。
ひとり息子で両親が亡くなり、継承問題を目の前にして城を継ぐしか道がなくなったのは、この『私が悪い』と言う男なのだから。
祖父母は、この男に愛情を一心に注いできたと女官長から聞いていた。親子仲はとてもよかったとも。
だからこそ、貊羅は城を継いだのだろう。その後、どれだけ堕落しようとも、捨てられなかったのだろう。
捷羅は時折考えていた。
父をこれほどまで骨抜きにした、哀萩の母は、どんな人だったのだろうと。
「もういいです。離れてください」
父は旅立つ。それは、変わらない。
「引き止めてしまって……すみませんでした」
詫びながら、気持ちの整理がつかない。詫びたいのは、それではないと思いつつも言葉にはできない。認めたくない気持ちの方が、上回ってしまって。
「さようなら」
別れを告げるのが精一杯の強がりになってしまって、顔も上げられない。
貊羅はそんな捷羅の気持ちを察しているのか否か、スッと離れるとそのまま部屋をあとにした。
玄が無事に出産し、捷羅は宝を得た。我が子のように迎え、喜べる凪裟を捷羅はふしぎに思う。
チラリと玄を見るが、何かを言う気配はない。捷羅と禾葩が結婚したころから、玄は羅凍を想っていて、望み叶って結ばれた。それなのに、羅凍の子ではないかもしれないとは言えないだろう。
それはそうかと、今度は羅凍を見る。
羅凍から『子を育てたい』と言うとは考えられない。何もかもが計算通りだった。
ただ、羅凍の子かもしれない可能性もまったくないわけでもなく、捷羅は子どもと羅凍の接点をいくつか設けた。
子は親から愛される権利がある。たとえ、子自身が『親』を知らなくとも。
計画通りと思っていたのは、ここまでだった。
哀萩を諦めて帰城した羅凍が、数年後にまた城を出ると言った。
羅凍は蓮羅を我が子と認識しているはずで。教育の一環を任せ、それなりの関係を保っていると捷羅は思ってだけに驚く。
「玄さんは……どうするの?」
やっと出た言葉がこれだった。
結婚してからの捷羅は、凪裟を裏切ることをしていない。
玄と関係を持ったのは、結婚前の一度きりだ。目的があってのことだが、玄にそうは伝わっていないらしく、ふたりきりになれば警戒がヒシヒシ伝わってくる。
だからといって、捷羅も目的のためにと伝えるほど野暮ではない。貴女が魅力的だったから、くらいの嘘はすんなりと言える。ただし、そう言ったところで玄の警戒心は薄れるはずがない。
羅凍と玄がうまくいっていないのは、一目瞭然だ。病室に籠ったままの玄は、禾葩が亡くなり壊れた捷羅よりも質が悪い。
いや、玄をあそこまで追い詰めたのは、己だと捷羅は自覚している。
禾葩の妹を、傷付けてしまった。今更ながら実感するからこそ、捷羅は自身に嫌気が差す。
捷羅が玄に対してあれこれ考えていると、羅凍がポツリと愚痴をこぼした。
「兄上はいいね。無条件で愛せるんだから。『女性』であれば、誰でも」
「そうだね」
久しぶりに羅凍と話し、捷羅は懐かしいと感じる。
そうだ、誰もが哀萩のようではない。それに、壊れまいと踏みとどまろうとする人だっている。
哀萩のような理解者は、稀だったのだ。
パシン
ふと頬に痛みが走り、捷羅の頭は真っ白になった。
目の前では必死に何かを言う羅凍が感情を無防備に、全面に出している。
誰が羅凍をこう変えたのかと思えば、『哀萩』と羅凍が諦めたはずの人の名が、その口から出ていて。
捷羅の忘れられない人の名も、母も、大切な人の名も羅凍の口から次々と出てきていた。
あまりにも羅凍が一生懸命で、『こんなことは初めてだと』捷羅が笑うと、羅凍は驚き後退る。
「な、何?」
「ううん、ありがとう。うれしいよ」
捷羅は笑いながら、涙をつぶす。
羅凍から、こんなに真剣に向き合ってもらえる日がくるとは、思っていなかった。
ポツンポツンとつぶれて落ちる涙に、捷羅は決意を固める。
「行っておいで」
精一杯の応援を捷羅がすると、羅凍が一歩足を踏み出した。
「兄貴、ありがとう」
抱き締められ、噛み締める。
『兄貴』と呼んでくれた。
何よりの、支えだった。
実際に羅凍が羅暁城を出ていったのは、およそ三ヶ月後だ。
大方、玄が羅凍に駄々をこねたのだろうと、捷羅は予想を付ける。その予想は当たり、玄の懐妊を母から聞いた。
母は甲斐甲斐しく玄の面倒を見ている。父がいなくなり、国務を手放してから、母はすっかり人が変わった。魔女のような母は、捷羅に媚薬を渡したのが最後。
本当は、世話好きでやさしい人だったのかもしれない。
想う人の面影がほしいと望む玄の気持ちは、わからなくない。新しい命が、玄の立ち直るきっかけになるかもしれないと捷羅は願うことにした。
ふうっと、捷羅は王の間で息を吐く。
羅凍と話したときに決意したことを、実行しようと立ち上がる。
禾葩の話と、玄の話を──凪裟にしよう。
決意は揺るがないのに、王の間の扉までは遠く、思案にふける。
凪裟は別れを言うだろうか。欺きでもあり、裏切りでもあっただろう。嫌われても、軽蔑されても受け止める覚悟だ。
別れを切り出されたら、かわすことはできない。
一歩、一歩を踏み締め、捷羅は王の間を開ける。開ける景色は、ひどく孤独だ。──父も、こうして過ごしていたのだろうか。
父が出ていく前にしっかりと受け止めてくれて、捷羅は初めて父が大好きだったと知った。慕っていたと知った。
父に似たかったという思いに気づいて、羅凍への嫉妬はそんな昔からだとも気づいた。
やっと、父の見ていた景色を見られた気がして捷羅は微笑む。
最愛の人と離れる決心ができたのは、羅凍と父のお陰だ。
十三歳になった蓮羅は、すっかり凪裟の手から離れた。今頃は剣の鍛錬をしているだろう。
凪裟は宮城研究施設にひとりでいるはず。告白をするなら、ちょうどいい。




