【19】出発(1)
「あの、すみません。梛懦乙大陸行きの正午の船は、まだ出港していませんか?」
恐らくはこの街──緋倉に着いたばかりなのだろう。彼の額には汗が滲んでいる。
急いでいるのか、慌てていて、きちんと着けている腕時計を見るよりも先に、目の前を通った倭穏に問いたのかもしれない。もしくは──。
──この街に、あまりなじみのない人なのね。
そう、倭穏は思った。
正午便の汽笛は特に大きく鳴る。理由はふたつ。ひとつはこの港街に正午を知らせる時計としての役割、もうひとつは、梛懦乙大陸行きの最終便の警告として。この地になじみのある人なら知っているはず。梛懦乙大陸まではおよそ一日かかる。そのため、最終便が早い。
彼は薄い色のスト─ルで首元を整え、品のよい黒っぽいジャケットを身に着けている。何か、特別な用事を済ませに行くのだろうか。そうでなければ、こんな正装はしないだろうし、まして貴族ばかりの梛懦乙大陸へは行かないだろう。
「まだ出港してないよ。特に正午発は大きな汽笛が鳴るから、すぐにわかると思うわ」
自分より年下と感じた彼女は言葉を崩した。身長が百六十センチもない倭穏が、背伸びをすれば目線が同じになりそうなほど小柄な青年が相手だ。
「あ、まだ三十分はありますね」
彼は改めて腕時計で時間の確認をすると、倭穏に視線を戻す。
「ありがとうございました」
上品に微笑み礼を言う。先ほどまでの印象とは真逆の、落ち着きある大人らしい表情。そのギャップに倭穏は言葉というものを忘れそうになる。
「あ……ううん。大したことじゃあ……」
しどろもどろ言うと、視線が合い、
「では」
と会釈をされた。
倭穏もつられそうになったが、彼はそのまま街の中へと消えていく。
「なぁんか、育ちのいい子~って感じよねぇ」
浅葱色よりも薄く見えるツンツン頭と、黒にも見える深緑色の眼鏡の縁が印象的だった。
──私とは無縁の、別世界の住人みたい。
そんなことをぼうっと考えていると、人混みの中で見慣れた男の姿が目に飛び込んできた。
「あ」
目的を思い出し、声が出る。倭穏は人を捜している最中だった。──その男は倭穏の家、宿屋『綺』の居候だ。
あれはまだ八歳だったころだった。父、叔が突然、連れて帰ってきた。
──この人は、死んでしまうのかもしれない。
幼い倭穏がそう思ったほど、その男はくったりとしていて、衣服はボロボロだった。
今でも、あのときの光景は鮮明に思い出せる。
「瑠既ぃ、待って!」
遠くにいる男を呼び、見失わないように追いかける。
あれから、歳月はあっという間に経ち、今では百八十センチを越す長身だ。一度見つけたら、滅多に見失わない。距離はみるみる縮まった。
「あ─ん! もう、朝からいないんだもん。街中捜したわよっ」
甘えた声で責める。しかし、倭穏の姿を見て瑠既は動揺している。
「ど……うして?」
その様子に、倭穏の眉間にしわが寄る。
「『どうして?』はぁ? 普通でしょ! いつもとなりに寝てる人が家の中にいなかったら、家の外も捜すわよ」
両手を動かして感情的に言う倭穏は、更に言葉を続ける。我こそが正義だと言わんばかりに、一本の指でピーンと瑠既をさして。
「しかも、お父さんにまで何も言わないで出ていくなんて、信じられない」
倭穏の勢いに、瑠既は苦笑いを浮かべる。
「そういや叔さんは、ごまかすのが不得意な人だっけ……」
ボソッと呟いた瑠既の発言に、
「何か言った?」
と、倭穏は目くじらを立てた。
今朝、瑠既は叔の部屋を訪れ、『行ってこい。待ってるぜ』と言われ見送られたことを、倭穏はまったく知らない。
一方、急激に気が重くなった瑠既は、いつもの陽気な宿屋の親父を思い浮かべて、仕方ないと半分諦める。出かけるとバレてしまったが、できれば同行はさせたくない。
「悪かった。そこは認める。だから、帰れ」
「どうして? 一緒に帰ろ」
「俺はちょっと用事があって出かけてくるから……」
「私が一緒に行ったら駄目なの? え、私にも言えないようなところに行くの?」
──言えるようなら、お前に言ってから行くだろうが。
心からもれそうになる声を、瑠既は抑える。だが、倭穏の尋問から逃れる手立てはない。
結局、
「黙って付いてこい」
と、倭穏の同行が許可された。
瑠既が向かった先は船着き場だった。大きな客船がひとつ、出港を待っている。
無言のまま出港の手続きを二名分終え、瑠既は船に乗り込もうとする。その様子に今度は倭穏が動揺する。
「ちょっと、コレって……梛懦乙大陸行きじゃないの?」
梛懦乙大陸は、貴族しかいないに等しい大陸だ。そのくらいは、倭穏も知っている。
船に乗るとしたら、城下町が港町として華やかな梓維大陸に行くのだろうと倭穏は思い、出港の手続きを黙って見ていた。それなのに、
「そうだよ、何か?」
行先は間違いないようだ。瑠既の表情はピクリともしない。
「何かって……行ってどうするのよ?」
「黙って付いてこいって言ったじゃん。それとも何? やっぱり、綺に戻る気になった?」
いつになく冷たい態度に倭穏の頬は膨らむ。
「わかった。聞かないわよ。聞いて悪かったわね」
気持ちと裏腹に、従うと言葉にする。
一方の瑠既は階段を昇り、二階の乗客席へと歩いていく。倭穏はそのあとを黙って付いていくしかない。
瑠既が窓辺の席に座ったのを確認すると、そのとなりに座る。となりに座っても、口は開かない。すっかり不機嫌な倭穏は、しばらく瑠既から視線を逸らす。──だが、倭穏の不機嫌は長続きしない。単に構ってほしいだけだ。チラリと瑠既の様子をうかがう。
瑠既は、変わらず窓を見ていた。遠くを見るような瞳に、何も言えずに視線を伏せる。
プオ─!
正午を知らせる大きな汽笛を合図に、船はゆるやかに動いていく。周囲に座る人々は落ち着いているにも関わらず、まわりをキョロキョロとし始める倭穏。
船に乗ってから二十分が経った。倭穏の沈黙は限界だ。次第にソワソワし、ついに場を繕うような言葉が出る。
「ねぇ、バルコニ─に行ってみない? 風にあたると気持ちいいよ、きっと」
「あ、ああ」
瑠既の返事は心ここにあらずだ。長年一緒にいる倭穏だが、こんな瑠既は初めて。
──何があったのだろう。
そう思ってみても、見当も付かない。
──何だか、別人みたい。
倭穏の知る瑠既は、いつもさりげなく気を配って周りを明るくする。そんな人だ。
バルコニ─に出ると、想像していたように風が気持ちいい。波打つ海も爽快だ。
「わ~、気持ちいい。ほら、バルコニ─に来てよかったね」
倭穏はすっかり上機嫌だ。しかし、瑠既の生返事は続く。まったくと思いながらも、それを責めないのが倭穏のいいところ。いい意味でも、悪い意味でも、人に流されない。
マイペ─スに倭穏が船を満喫していると、ひとりの人物に目に留まった。梛懦乙大陸行きの船を訪ねてきた、あの小柄な青年だ。
「あ」
声を出すなり、倭穏は彼に向かって走り出す。光が当たり、黒っぽいと思っていたジャケットは、眼鏡と同じ色だとわかる。上品な深緑色だ。
「あ~、やっぱりそうだっ」