【31】十六年(1)
流れで生家に戻ることになってしまった羅凍は、改めて羅暁城を見つめる。
最後に見たときのように、羅暁城は『城』らしく、白い壁に映える澄んだ水色は、とても美しい。
羅暁城が生家だったと受け入れれば、胸元で泣くのを必死にこらえている青年は、己のようにも兄のようにも感じる。
早い十六年だった。鐙鷃城の長女、黎の結婚相手が蓮羅だと聞き、つい、耳が大きくなってしまったのも懐かしい。
聞かないふりをしていても、黎が鐙鷃城に戻ってくれば鴻嫗城にもいくらか話が入ってきたものだ。
轢が、姪っ子がかわいいと言っていた。蓮羅はきっと、いい父親なのだろう。
そっと頭をなで、感慨深く言う。
「もう……二十八歳か」
蓮羅の、涙がたっぷりとたまっている瞳が崩れるようにつぶれる。
「ほら、娘もいるなら、しっかりしないとな」
ポンポンと肩を叩き、ゆるりとゆるんだ腕の隙から一歩を踏み出す。
成り行きはどうあれ、戻ってきてしまったのだ。
兄に会い、『帰った』と告げなくてはならない。
正直、今後を思うと心は重い。
けれど、受け入れなければならない岐路にきた。
歩みを進めながら『いつの間にか、俺も爺さんか』、『蓮羅は俺よりおっきくならなかったんだな』など独り言を言い、蓮羅をからかう。
扉の前へと辿り着き、羅凍は足を止めた。
「言うのが遅くなったけど……結婚、おめでとう」
蓮羅は聞いているはずだと、振り返らずに告げる。
扉を開けると、懐かしい階段が左右にそびえたつ。
「これは、俺の最後の『お願い』だ」──颯唏はたった十六歳で、どれほどの勇気を振り絞っただろう。
羅凍はじっとりと階段を見つめ、右側へと歩き出す。
鴻嫗城に行き、様々な経験をしてきた。だからこそ迎えられた今だろうと羅凍は振り返りつつ、決して選ばなかった右側の階段を上がっていく。
庾月と颯唏の護衛をし、想像以上に楽しい日々だった。沙稀の子どもたちだからこそ、大事に想い、見守り、接してこられたというのは大きい。
教育や子育てというより、誰よりも成長させてもらった気がする。責任を背負い、最も大事な命を預かり、貴重な時間を精一杯生きた。
階段を上り切り──そういえば、ひとつだけふしぎな経験をしたと思い出す。
あれは庾月が結婚してから数年後だ。
元気のない颯唏と稽古のあとに少し話し、どうしたら元気になってくれるか考えていた日のこと。
珍しく夜の城内を歩いた。
ぼんやりと考えながら歩いたせいだろう。気づけば鴻嫗城内で迷ってしまっていた。
焦りは禁物だと、懸命に沙稀が昔に言っていたことを思い出す。
『円柱がどれも似ているから惑わされて現在地を把握させにくくさせているのは確かだ』
『一応、城自体も姫を守っているということさ』
鴻嫗城は『守りの城』、そう考えを改めれば焦りは消えていった。
──知っている場所に出られれば大丈夫だ。
落ち着きを取り戻し、歩いてからふと視界が開け、羅凍は立ち止まる。
目の前には見たことのない景色が広がっていた。
城内とは思えない空間。広くて、静かな。異空間と言っても過言ではなかったかもしれない。
中央には噴水のような物が見えた。
だが、水の音もなければ、水も出ていない。
それを囲うように何本もの柱が立ち並び、アーチを支えている。全体が青白く光って見える。
「貴男は今……幸せ?」
唐突に聞こえた声に、羅凍は言葉を出せなかった。
よくよく見ると、噴水の物陰に恭良が立っている。
恭良は沙稀がこの世を去ってから床に伏せていることが多く、よほど特別な用事があるとき以外は姿を見せない。尚且つ、羅凍がふたりだけで会ったことは、これまでなかった。
「私、貴男と結ばれていたら……普通の女の子に戻れたのかしら」
青白く輝く空間で、白いドレス姿が溶け込む。その中で色彩の異なるクロッカスの髪がくっきりと映った。
髪が長く伸びていてもおかしくない生活を恭良は送っている。それにも関わらず、クロッカスの髪の長さは、沙稀の生前と変わっていない。肩にわずかに乗るほどの、最高位の姫には相応しくない短さ。
わけのわからないことを、恭良が言っていたからかもしれない。
ドクンドクンと強く、早く羅凍の鼓動が高鳴る。すると、
「貴男、男の人なのにきれいね」
と、恭良は微笑む。そして、フッと羅凍に腕を伸ばした。
その瞬間、羅凍は咄嗟に後退をした。なぜかはわからない。だが、美しすぎる光景に溶け込む恭良の姿が恐ろしかった。
羅凍の態度に恭良は冷たく笑う。
「大丈夫。今更……何も望まないわ」
冷たいクロッカスの瞳が羅凍を見つめている。
何とも不可思議だ。沙稀が一緒にいた相手とは、到底思えない。
羅凍は剣を構えるか迷う。けれど、妖でなければ、とんでもないことだ。鴻嫗城の王妃に、剣を向けるのだから。
冷や汗が額に、手に、背に浮かぶ。
恐らく、見てはいけないものを、見てしまった。
右足を一歩後退させ、腰を屈める。膝を曲げ、いよいよ剣に手を伸ばそうとした刹那、恭良が口を開いた。
「返してあげる。だから……もう、ここには来ては駄目。迷ってでも、入り込まないで。聖域だから」
ゆっくりと恭良が歩き出す。
羅凍は動けずにいたが、『早く』と見下ろすように恭良が言う。
ジリっと足が引きずるように何とか動いた。咄嗟に羅凍は姿勢を走れるようへと変え、言葉に従った。
懸命に走り、気づけば宮城研究施設へと続く渡り廊下が見える場所に出ていた。足元を見れば、紫紺の絨毯。恭良の言う通り、決して立ち入ってはいけない場所にいたと思ってみても、振り返る気には到底なれなかった。
翌日、恭良は意識を落とす。
あのときの彼女は、もしかしたらもう肉体から離れた存在だったのかもしれない。思い返してもゾッとするほど、異質だった。
そうこう振り返っているうちに、王の間へと辿り着く。羅凍が見上げると、蓮羅が早々に扉を開け、背筋を伸ばし入っていく。
頼もしい背を見ながら付いていくと、玉座には捷羅が座っていた。
捷羅は立ち上がり、目を丸くして羅凍を見る。




