【29】願う光景
草花のない、寂しい光景が広がっている。颯唏は大臣の部屋に入る前、一面のガラスを挟んで見える光景に足を止めていた。
美しく輝かしく咲いていた花々が、今は面影もない。実りの季節を過ぎ、次の春を迎える準備の期間だから当たり前だというのに、やけに物悲しい。
年末になり、周囲がバタバタしていると颯唏は感じていた。庾月の娘、夷吹が母の手を離れ行動する年齢になったせいもあるのかもしれない。
涼舞城の再建は順調に進んでいる。鴻嫗城にいない日が颯唏には増えた。
──もう……あと一年も、鴻嫗城にはいないんだろうな。
変わらずに庾月と、娘の夷吹は家族と離れたまま。
生家を離れる日々にカウントダウンが始まったと感じている颯唏には、庾月と夷吹を取り残すような感覚だ。
鐙鷃城は長女の黎が嫁に行ったが、毎年年始には顔を出している。三女の凰玖は、克主研究所に行くと聞いたが、春になってかららしい。
昔の賑やかな光景を思い浮かべ、颯唏は長く息をもらす。
「こら。幸せ者が……そんなんだと、幸せが逃げちゃうよ?」
ドキリとして颯唏は背を伸ばす。ガラス越しに背後を見れば、楽しそうに笑う轢がいる。
「轢兄」
ずい分長い間会っていなかったような気がして、颯唏は思わず呼ぶ。その表情は、轢には困った表情に見えたのだろう。
「どうしたの」
颯唏のとなりまで轢は来て、同じようにガラスの向こうを眺める。
「どうしたの……って、轢兄こそ。家族団らんしてたんじゃあ……ないの」
どことなく気まずく、落ち着かない颯唏は徐々にうつむく。
「轢兄……行っちゃうんだ」
颯唏の寂しげな発言に、轢は微笑む。
「もう……颯唏は大人だろ?」
「そう言うのは、轢兄だけだよ」
ふて腐れたような物言いをし、『それに』と続ける。
「轢兄が……まさか『絶世の美女』と結婚するなんて、思わなかった」
『俺より年下が相手だなんて』と、年齢についても颯唏は付け加える。
『絶世の美女』は、颯唏よりもひとつ下、まだ結婚には年齢が足らない十五歳だ。
「これからだけど」
と、轢は言い、
「俺も、先に颯唏が子宝に恵まれるとは思わなかったよ?」
と、続ける。
からかうでもなく言った轢に対し、颯唏は頬を膨らませる。
相変わらず轢は純粋すぎて眩しい。
颯唏の顔が次第に紅潮していく。
颯唏にとって子宝に恵まれたのは、何よりも喜ばしいことだ。元々、挙式の前に授かれたらいいと颯唏は望んでいた。
だが、まだ結婚できる年齢まで足らない。挙式よりも前に、我が子を迎えられるとは思っていなかったのだろう。
「そんなこと言う轢兄の結婚式には、出席してあげないんだから。もう知らないんだからねっ」
フイっと顔を背ける。
だが、一面のガラスの前。
颯唏の表情は、ガラス越しに轢には見透かされている。
「そっか……それは困ったな」
轢は右手を頭の上に置く。
「折角、颯唏の悩みを解消できるかな~と思って来たんだけど……」
轢の言葉に、颯唏は心臓が飛び跳ねた。
颯唏の頭の中は悩みごとだらけで、こんがらがりそうだ。けれど、誰かに気にしてほしいそぶりや、相談をしたことはない。
一束にまとめた、クロッカスの長い髪を大きく揺らして振り向く。
すると、轢は満面の笑みを浮かべていた。
轢の話を一通り聞き、颯唏は『さすがは轢兄だ』と感心した。
しかし、迷いも浮かぶ。
──都合がいいのは、わかっている。自分も鴻嫗城からいなくなるんだ。……轢兄は悪くない。むしろ、俺なんかと違って……。
無防備に、取り留めのない気持ちを露わにしていたのだろう。
「どうしたのですか?」
大臣の部屋を訪れ、早々に心配をされた。
『ふん』と、颯唏は拗ねた声を出す。
「知らない。轢兄が悪いんだもん」
颯唏は大臣と和解してから、大臣職を手伝うようになっていた。
ただ、まだ十六歳だ。
年齢を考慮し大臣は断りを入れたが、
「涼舞城で俺がしないわけにもいかないし。勉強の一貫」
と押し切られ、断り切れなかったのである。
琉倚と会いたいと言う前のような颯唏の態度に、大臣は苦笑いする。
琉倚は先日、懐妊が判明したばかり。
年が明け誕生日を迎えても、颯唏は結婚可能な年齢まで一歳足らない。
琉倚は颯唏と婚約してから、数ヶ月でこれまでの年齢を取り戻すかのように女性らしい体型へと変わっていっている。それは身長も、声も。
同年代に見えていたふたりは、颯唏の方が年下に見えるようになっていた。現在のふたりの印象は、颯唏と庾月が一緒にいる光景と似て見える。
琉倚の方が年上だという自覚は、颯唏の中に当初からあった。
ゆるやかに──けれど、決して自然とはいえないスピードで──視覚として表れていく状況に、颯唏は焦りを感じずにはいられなかった。年齢差が明確になっていき、琉倚が離れていってしまうのでは、という焦りだ。
そんな中の琉倚の懐妊。吉報を知った颯唏は、琉倚を抱き締め、しばらく離れないほどの喜びに打たれた。
「やはり……颯唏様、なのですね」
もどかしさを一掃するようなやさしい大臣の声に、颯唏は顔を上げる。
「安心しました」
大臣の微笑みに、颯唏は瞳が熱くなるのを感じ視線を落とす。
「バカだな、大臣は。何……当たり前のこと、言ってんだか」
寂しさを吐き出す。
颯唏は大臣と逆だ。
『別人』になろうと何年足掻いたところで、『別人』にはなれなかった。
翌日、颯唏は再び一面のガラスの前に立っていた。
今日は珍しく梛懦乙大陸にも雪が降りそうだと、空を見上げる。
昨日、轢が言っていた言葉を思い出す。
──確かに……みんなが幸せになれるのかもしれない。
初めに聞いたときから、最善策だと思っている。轢の提案を、颯唏は受け入れようと前向きに検討する。
ふと、眩しい光を感じ、颯唏は視界を細めた。
光の先に見えた景色は春のように朗らかで、陽射しが舞っていた。
花々は凛とし、楽しく会話をしているようだった。
誰もいなかったはずの中庭に、いくつかの人影が見える。
人影は、四人だ。
七歳ほどの少年を中央にして、囲うように三人の大人がいる。
そのうちのひとりは大人といっても少女のようで──少女は、姉のように見えた。
皆、楽しそうだと颯唏が輝かしい景色を見つめていると、ひとりだけ微妙に髪の毛の色が違うことに気がつく。
──あれ……みんな、クロッカスだと……思っていたのに。
その瞬間、颯唏は動揺した。
目を留めた、最も髪の長い人物の持つ色彩は、リラだ。
意識的に颯唏は視線を逸らす。
理解がまったくできない。
そもそも、今は冬。
草花が中庭を覆っているはずもない。
それは、昨日も、今朝も変わらなかったこと。
ドキリドキリと、鼓動が高鳴る。
何度深呼吸をしても、鼓動は強く、早く打つことをやめない。
颯唏は、深く息を吸い、ゆっくりと視線を動かす。
一種の願いを込めて。
──あの少年は……俺、だったはず。
ガラスの反射を受け、円柱の柱が淡い色を映す。だが、颯唏はその奥を必死に見つめた。
ガラスの向こうには、誰もいなかった。
昨日とも、今朝とも、同じ景色が広がっていた。
颯唏の頬を、込み上げた涙が伝う。
──そうか、あの光景は……俺の願っていた光景だ。
轢の提案を胸に、颯唏は決意をする。




