【27】償い(2)
『そっか』と照れたように颯唏は笑い、『またね』と手を振り大臣に背を向ける。
先日、颯唏は琉倚と正式に婚約を公表した。何かに追い詰められていたような感覚が颯唏から抜け、精神的に安定した気がする。琉倚も、颯唏と初対面のときと比べ想像できなかったほど幸せに笑うようになった。
琉倚の幸せを阻んでいたのは己だったのかもしれないと、感傷に浸りながら大臣は自室へと向かう。
颯唏が琉倚を変えてくれた。今になって思えば、感謝しかない。
大臣が颯唏を見てきて、十五年。
外見こそ父の強い面影があるものの、その姿はずっと沙稀とは似つかないものだと思っていた。
しかし、この数年はどうだっただろう。
時折、沙稀かのようなそぶりを颯唏は見せていた。大臣は己が抱える罪の意識がそう見せるのかと思っていたほどだ。
いや、知る由もないことまで、なぜか颯唏は知っていた。──まるで、沙稀本人かのように。
ふと感じた、懐かしい気配。
大臣は来た道を振り返る。
颯唏の後ろ姿は遠く、わずかに見える程度になっていた。
腰まで伸びた、長いクロッカスの髪がゆっくりと揺れている。
ゆらりゆらりと揺れる色彩と体格に、安堵する。
颯唏の背は、沙稀のそれとはまったく重ならない。颯唏は髪の毛をキッチリと束ね、且つ、ちいさめの髪留めを使用する。そして何より、歩き方がまったく違う。
颯唏は、颯唏だ。
当たり前のことを大臣は改めて実感し、自嘲する。
いつぶりかというくらいゆっくりと歩き、やっと自室に戻った大臣は驚いた。
日が傾きかけた室内に、いつからいたのか瑠既の姿がある。書類に視線を落とし、格闘している様子。
本人は気づいていないだろう。眉間にはしわが寄っている。
瑠既も五十をとうに越えた。長女の黎が産まれ、名付けを注意したのが懐かしい。その長女も、もう嫁いだ。
黎が産まれる前に、産まれていた息子の留は庾月の夫で、娘が三人いる。
そう思い返してみても、瑠既がこうしていてくれることが、とてつもなくうれしい。
胸がいっぱいになった大臣は、静かに扉を閉める。
スッと背筋を伸ばし、『大臣』へと戻る。
「そんなに根詰めると、お体によくありませんよ」
大臣の言葉に、瑠既はパッと万年筆を手離した。
「あれ……もう、大臣が仕事を終わらすような時間?」
眉間のしわは瞬時に消え、苦笑いを浮かべる。
成長し男性の顔立ちになっていても、大臣には紗如の面影が強く重なる。
「そうですね。『そんな時間』です」
大臣と瑠既の後ろ髪の長さは然程変わらない。差は結んでいるか、いないか。もっとも、瑠既は一部の長い毛の束を手前に垂らしていなければ、短髪に見える異例の髪型だが。
座る瑠既の横をフラフラと歩き、ソファの背もたれに手を置いて立ち止まる。
「すみません、横になってもよろしいでしょうか」
「ああ、うん」
瑠既の返事は生返事だ。『確認してほしいところが』と言葉は続いたが、大臣と視線が合うなり瑠既は言葉を止めた。
「どうしましたか?」
素っ気ない大臣の声に、瑠既は机に向き直す。
「いや、いい。明日にでも確認してくれれば、それで」
「そうですか」
遠慮せずに大臣はベッドへと行き、横になる。
あえて背を向けた。紗如と錯覚し、冷たい対応をとらないで済むように。
すると、すぐに瑠既の声がする。
「甘えなのはわかってるけど……」
消えていく声に、大臣は聞き耳を立てる。
けれど、続かない。紗如ではあり得ないことだ。
大臣は仕方なく上半身を起こす。
「言いたいことがあるなら、はっきりと言いなさい。何です」
颯唏に無理をして付き合った。疲労が大臣を襲ってくる。そのせいで、瑠既に子どものころのように接してしまった。
大臣は内心反省しつつも、態度には出さないよう努める。
具合の悪さが気分の悪さと瑠既には見えたのか。ポソリポソリと話す。
「大臣にいなくなられたら……困るんだからな、俺」
想定外の言葉に大臣が驚いていると、瑠既はそれきり黙々と書類を捲っていく。
集中しているよう振舞う背を見ているうちに、大臣は笑いが込み上げてきた。我慢できず声を殺して笑うが、笑い声がもれたのだろう。
瑠既に聞こえたようで、瑠既は一瞬だけ大臣を見、ばつが悪そうにまた書類へ向き合った。
そのそぶりが更に大臣を笑わせる。もう、我慢はできない。
「瑠……瑠既様が……」
「何だよ」
「いえ……な、何でも、ない……です」
不機嫌な声に、大臣は必死に笑いをこらえる。
素直になれないのに寂しがり屋な部分が紗如にそっくりで、けれど、双子の沙稀とは正反対で。
それが妙におかしかったのだ。
口元を布団で抑え、笑いをどうにか止め、
「少し、眠らせていただきます」
大臣は再びベッドに身を任せる。
「うん」
素直な遅い返事が、大臣の耳にはきちんと届いていた。
「稀霤……私ね、『いい母親』でいたいのよ」
双子を産み、しばらくしてからのことだ。紅茶を嗜みながら紗如は言った。
薄い桃色のカーテンがフワリと風に舞っている。
「子どもには『いい母』でありたいのですか」
「あら、いけない?」
あっけらかんと紗如は言う。
「いいんじゃないですか」
半ば呆れたように大臣は返答する。
「沙稀って……似ているでしょう?」
『誰に』と言いそうになったが、大臣は口をつぐんだ。
「そうですね。……私も、そう思うことがあります」
大臣の暗い言葉とは裏腹に、紗如の顔はパァッと明るくなった。
「そうでしょ!」
『やっぱり』とでも言いたげな様子に、大臣は静かにうなずく。
何が言いたいのだろう。怪訝な気持ちを抑え、大臣は紅茶に手を伸ばす。
チラリと紗如に視線を向けると、彼女はおだやかに笑った。
「だからね、私……子離れをきちんとできるようにしておかないと、と思って」
大臣がカップをソーサーに戻すころ、紗如が言葉を続ける。
「自分が決めた相手と結婚するなら……仕方ないって諦められるでしょ」
紗如は揺れるカーテンが遠くにあるように見つめた。
思えばこのころ、紗如はまだ自身が病魔に侵されていることを知らなかったのかもしれない。
美しい光に消えていきそうな紗如の笑顔を、大臣は夢の中で懐かしく眺めた。




