【２６】重なる罪（１）
大臣が『沙稀』の本名を知ったのは、双子が生まれて五年後。目にしたのは、偶然だ。
目にした大臣は青ざめ、理解に苦しみ、こんなことをするのは紗如だと結論づける。内線を紗如にかけ、
「大事な話があります。今から行きますから、ふたりだけで話せるようにしておいてください」
と、できる限り怒りを抑えて伝えた。
双子の教育係となり、紫紺の絨毯の上を歩くのも珍しくなくなったのに、色の境目で足が止まる。紗如の部屋に行くせいだ。
双子を出産してから紗如は体調が悪いと床に伏せることが増えた。そのせいで大臣が双子の橋渡しをしている。
けれど、それは業務報告であって、私情を挟むものではない。
望み通り子どもを産んだ紗如との関係は、大臣が望んだように立場上接するだけになった。それでよかったとも、そういうものだったとも互いに思っているからこそ、紗如を『姫』と接してこられたのに。
紗如が理解不能なことを、大臣に仕向けていたのだ。それも、とてつもなく甚だしいことを。
大臣は子どもたちのことに口を決して挟むまいと、私情を抱かないようにと接してきたのに、紗如には到底理解できないのだろう。
「あんの我が儘姫が」
これほどの怒りに駆られたのは、大臣に就任してから初めてかもしれない。
大臣は怯んでいた足を踏み出し、一直線に紗如の部屋へと赴く。
ノックをし部屋に入っていっても、紗如は大臣が震えるほどの怒りを抑えていると気づかなかったのだろう。
「二男は『沙稀』だったのでは？」
厳しい口調で戸籍を突き付けると、紗如は目を丸くして大臣を見上げた。だが、大臣が怒っていると理解すると、つまらなさそうに突き付けられた物に目を落とす。
「そうよ」
それがどうしたのかと言いたげな態度に、大臣は感情を抑える気力がなくなる。
「では、ここにあるのは何だとおっしゃるのですか」
「本名ね」
サラリと紗如は言う。更には指をさし、淡々と話す。
「そっちは『本名』、『沙稀』は……『幼名』と、いうのでしたっけ？ 涼舞城ではそれが『通例』なのでしょう？」
首を傾げて訊ねるほど、悪びれる様子がない。
ここは鴻嫗城だ。涼舞城の仕来りは無関係のはず。グッと、左手を握る。
「どういうおつもりで……」
「どうもこうも、ないわ。そのままよ」
パシッ
怒りを抑えるために握った左手が、弾けて紗如を叩いていた。
女性に手を上げるのは、最低だ。
だが、同様に最低な取り返しのつかないことをされ、大臣は我慢ならなかった。
「涼舞城の通例は、様々な段階を踏むからこそ、成り立つのです！ 『沙稀』は自分の名を、今も知らないままなのですよ？ それに、涼舞城は、そもそも二男が城を継ぐことが前提で……」
「じゃあ、その準備を……私が整えればいいのね」
紗如は大臣に敵視を向ける。
「『姫』は、私もとにはいないもの」
ゆるくウェーブのかかったクロッカスの長い髪が、大臣の目の前を通り過ぎていった。
それから数日後。今度は紗如が大臣の部屋に来た。手元には、数枚の書類。手渡され、大臣は目を通す。
「婚約者の手筈を整えたのですか」
「ええ」
手際のよさに大臣はため息をつく。紗如は、留妃姫によって結婚相手を自由に選ぶことができる状態であるのに、自らは母として決めるのかと。
大臣は書類に目を落とす。そうして、我が目を疑った。
「これは……」
「瑠既と沙稀はとっても仲のいい双子だもの。……いいじゃない」
「何もわかっていない！」
紗如のふて腐れたような言い方に、つい、大臣は叫ぶ。
「貴女は、何も……わかっていない……」
大臣の震える声に、紗如は何か言いたそうな表情を浮かべた。開きかけた唇を閉ざし、フイッと背を向け出ていく。
扉の閉まる音が聞こえ、大臣の瞳から言い知れぬ想いがあふれる。
長男、瑠既には、すでに婚約者がいた。本人が気に入った、近隣の姫の誄だ。
二男の婚約者に書かれていた名は『琉倚』。『誄』と同音の姫。だから大臣は目を見開いたのだが、もうひとつ驚くことがあった。
『琉倚』の出身は、涼舞城と記載されていた。涼舞城の三男と、かつての妻の名まで。
大臣は知らなかった。かつての妻が子を産んでいたことを。涼舞城に関わるのを避けるため、調べるのを避けてきた。すでに亡き者と自覚していても、知ってしまえば様々な感情が沸くだろうと。
想像していた通りだった。祝いたいという気持ちがある。『王妃』として彼女が受け入れ、懸命に生きているからこそ成し得たことだ。
三男にも、感謝の念はある。同時に兄をふたり失ったようなもの。悲しみをこらえ城を継ぎ、意志も継いでくれた。頭の下がる思いだ。
だが、拭いきれない気持ちも沸いた。ふたりを裏切り、未だ生きている。
涙が流れていく。感情があふれすぎて。
大臣は自問自答する。縁を切ったはずの鴻嫗城に、娘を嫁がせると決意した気持ちは、どんなに辛かっただろう、と。
王妃も、弟も、断りたい気持ちがあっても、鴻嫗城からの申し出だ。『縁を切ったはずだ』と、断ることはできないだろう。
憎しみは幾重にも重なったかもしれない。それでも、了承するしか選択肢はなかったに違いない。
何よりも、『沙稀』の双子の兄の婚約者と、同じ音の名だと知ったなら──王妃も、弟も、どう思うだろうか。
心の底から申し訳ないと思っても、詫びる手立てはない。『稀霤』はもういないと、己で消したのだ。
留妃姫が亡くなったのは、そんな矢先だった。
大臣が前触れを感じることはなく、突然。
雷に打たれたようだった。
知らぬ間に病が進行していたという。紗如には病を告げていたのか、紗如は取り乱さなかった。
まだ幼い双子が、大好きだった祖母の死を悼む。
「ありがとうと、感謝しましょう」
双子のとなりで紗如は気丈な『母』として、留妃姫を見送る。
けれど、紗如の変化は顕著だった。ぽっかりと心に穴が開いたかのように、紗如は以前の奔放さを失っていった。
それが大臣には元気を失っていくように感じ、紗如を気にとめる要因になっていく。
以前には気にもとめなかった紗如の顔色の青さや体調の悪さが頻繁だと気づく。そもそも紗如は、『私、意外と丈夫みたい』と言っていたのだ。これまで度々体調が悪いと言っていても、またいつもの我が儘だと思い込んでいた。
けれど、思い返せば双子を出産してからだ。無理をしていたと気づく。紗如は長時間、体を起こしてはいられなかったのでは。
大臣は知らなかった。紗如は生来、体の強い方ではなかった。『私、意外と丈夫みたい』と言っていたのは、強がりだったのだ。
留妃姫の四十九日が過ぎたころ、紗如から大臣に内線が入る。
留妃姫を亡くした穴が紗如は埋まらないのだろう。それは、大臣も同じだ。傷の舐め合いのようなものだと思いつつ、紗如からの言葉に断る理由を見つけられない。
承諾の返答を短くし、紗如の自室へと向かう。
どうせ誰も使用人はいないのだろうと浮かび、いつからこんなにふてぶてしくなったのかとうんざりとする。
ただ、言えるのは──紗如と話すなら、誰かに聞かれていい内容はないのだ。
入室前にはノックをするが、開けられることはない。必ず大臣が扉を開く。鍵を閉めて歩を進めれば、紗如はベッドの上で上半身を起こしていた。
「私、お母様の考えがわからなかった」
ポツリと紗如は言う。
「女の子が産みたかったの。だから、何人でも産むつもりだった。十人だろうが、二十人だろうが。女の子を、この腕に抱けるまで」
極端な物言いに大臣は驚く。
「結婚するつもりだったのよ、私。お母様が決めた相手なら、誰とでも」
意外な告白だ。紗如は『結婚したくない』と駄々をこねていたのだろうと、勝手に大臣は思っていた。
「それなら、どうして唏劉剣士と……」
