【18】再動(2)
馨民は寄り添うように言う。しかし、その声は忒畝に届かなかった。あっという間に走っていき、図書室から姿を消した。
──間に合わなかった。
これ以上のない後悔が押し寄せる。忒畝には確信があった。時が、動き出してしまったことに。恐れていた事態へと動き出してしまったことに。
後悔は、手遅れの事態になりかねないという焦りだ。今の忒畝に手立てはない。無条件で降参だ。
「悠穂……、悠穂!」
もし、願いを叶えてくれるというのなら、妹を救ってくれるというなら、忒畝は自ら両手を上げるだろう。妹を守るためなら何を差し出せと言われても迷わない。たとえそれが、自らの命であっても。
──十八歳
一度、消したはずの気配は、再び忒畝に近づいた。歳月をかけて襲った気配を、忒畝は忘れられなかった。
すり込み、植え付けられた強い恐怖。気配を感じるだけで緊張感が走り、背筋が凍るように冷たくなるようになっていた。
父、悠畝は誕生日を迎える一週間前に、この世を去った。享年、四十二歳。
ある日、父は突然倒れて歩くことが困難になった。すぐに体を起こすこともできなくなり、短期間でみるみる衰弱していき、亡くなった。
父が体調を崩す前、母を見たという噂を研究所内で耳にしたが、真相はわからない。
──二歳
初めてこの気配を感じたのは、妹が産まれて数ヶ月が経ったころだった。ふと窓の外を見ると、そこにいた人ならぬ人型の異形の存在。ギラリとする目がこちらをジッと見ていて、忒畝は恐怖に呑み込まれた。
その存在は父にも母にも見えないのか、室内ではおだやかな空気が流れていた。忒畝だけが気づいているようで、自分だけに見える存在ならと両親には言えず、忒畝は怯えながらも見えていないふりをした。
──三歳
母が失踪した。思い返せば、母は失踪する前、何度も苦しんでいることがあった。頭を抱えて、何かに抵抗しているようだった。
あれは、失踪前日。
何かに怯える母を見た。怯えた視線を追うと、そこにいたのは──。
「竜称……」
母がそう呼んだのは、あの異形の存在だった。
──五歳
目を覚ますと、首を絞めようとしている竜称がいた。しかし、異様に伸びた爪が喉に触れ忒畝が起きたと気づくと、不敵に笑って消えた。
ガラス越しに見た日から、徐々に距離は縮まり、ついには触れる距離までになった。しかも、命を狙われた。竜称への恐怖は日に日に募っていく。
だが、逃れる術はない。いつも向こうから突然現れ、消える。
──六歳
竜称に出会う回数は増えていった。忒畝が気配を感じると、まるで空間が一部だけ切り取られたかのたように、廊下でふたりだけで会う。
何度も何度も見えないふりをし、恐怖を押し殺してすれ違った。だが、あるとき、忒畝は思い切って声をかけた。
「母さんを……知っているの?」
「刻水のことか。母を恋しがるとは、まだまだ幼いな」
冷たい笑みを浮かべ、竜称は消えた。
竜称は母を『刻水』と呼んだ。しかし、父は──『聖蓮』という名で母を呼んでいた。
母は単なる失踪ではない。何かがある──忒畝は気づき始めていた。髪と瞳の色が物語るものを。
──十歳
気配は、初めから感じたことなどなかったかのように、パッタリとなくなった。なぜか、ずっと忒畝につきまとっていた存在だったのに。
殺さずに生きながらえさせ、死の恐怖だけを与えられた。
死を与えることはかんたんだったはず。なぜ、殺さなかったのか。──気配は消えても尚、忒畝の心を離さなかった。
──十二歳
偶然、目にした事実。衝撃的な事実は、忒畝の目を釘づけにした。
伝説の資料の中に『刻水』の名を目にした。すぐ近くには『竜称』の名まで。
四戦獣の記録だ。そこには『竜称』『邑樹』『時林』そして、母を示す『刻水』の四人の名が記されていた。
尚且つ、白緑色の髪とアクアの瞳は『女悪神』の血を継ぐ者の象徴とまで、記されている。
母は、四戦獣のうちのひとりだった。
忒畝は鼓動を抑え、次々に頁をめくる。伝説は、終わったはずだと、祈るように。しかし、そこにあった記述は、忒畝には残酷なものばかりだった。
──十四歳
父のようになりたいと、ずっとその背中を追ってきた忒畝には、ふたつの夢があった。
ひとつ目は、父と同様に君主になること。
もうひとつは、父が築いたようなあたたかい家庭を築くこと。
四戦獣を伝説でも、他人事でもないと理解してから二年。忒畝はあることを知って、その夢のうちのひとつを諦めた。逃れられない宿命を知り、受け入れるために。自力でどうにもできないもどかしい現実を受け止めるために。
「たとえ僕が、僕の望んだ未来を手に入れられないとしても……僕には僕にしかできない使命がある」
その想いを胸に君主の試験を父に志願して受け、わずか十四歳でその権利を獲得し、ひとつの夢を自力で叶えた。
君主になることを望まずに、君主になった父。父の姿は、忒畝から見れば、いつも強い父だ。その父のように、強くありたいと忒畝は願った。
──十八歳
父が亡くなり、忒畝は君主の地位を継いだ。
皮肉に感じていた。
父の死を公表することが、忒畝の君主としての初仕事だった。
君主の試験を受けたときや、結果を聞いたときに望んでいたのは、父の死ではない。それを望んだわけではなかったとジレンマに苛まれた。
忒畝は他人より成長が遅かったが、父は決して遅いとは言わなかった。
「ゆっくりでいいんだよ。ゆっくりでも、できるようになる。いつもそれに僕は感動する」
そう言って、いつも見守っていてくれていた。できないことを責めず、できたことを誉め、ともに喜んでくれた。
そんな父を失って、忒畝は心の拠り所を失い、心には大きな穴が開いていく。
──二十歳
気配を意識するようになった。動き出す時間が迫ってきているのを肌で感じた。
忒畝は足掻いていた。手立てを模索していた。悠穂を女悪神の血の力から解放する術を。
覚醒してしまったら人の姿を保てない。万が一、悠穂が覚醒してしまっても、力を解放する術さえあれば、それでよかった。そうすれば、人の姿に戻せるだろう。
しかし、その手立ては見つからない。手がかりがなさすぎた。
今の忒畝が一番怯えるのは、悠穂が覚醒してしまうこと。悠穂には、普通の女の子の人生を送ってほしいと願う。覚醒のきっかけはわからないままだ。何をきっかけに悠穂が覚醒してしまうかさえもわからず、不安に耐える日々は続いた。
竜称の存在は、未だ恐怖がある。だが、恐怖に怯えている暇はないと奮い立たせて。
もし、今度。緊張感に襲われ、背筋が凍るように冷たくなったときは、『始まりの合図になる』──忒畝は父が亡くなる前に母を見たという噂を聞き、直感でそう思っていた。
そして、それは告げられてしまった。恐れていた悠穂の行方不明という、最悪な事態とともに。




