【21】命を重ね(3)
兄は伯父だからと抵抗しなかったわけでも、できなかったわけでもない。伯父は、稀霤に告げた言葉と似た言葉を、兄にも告げたはず。
いや、もっと暴言に近い言葉を浴びせたかもしれない。
異臭が鼻を突く。
否が応でも、昨日見たものが蘇る。
近づく足が重くなる。兄への、後ろめたさだ。
伯父は留妃姫の護衛。涼舞城の長男だった。
同じ境遇の伯父から痛烈な言葉を受けたであろう兄。昨夜、二択の片方が消えたのに、未だに脳内で繰り返してしまう。否なら『否』と断固言ったはず、と。
稀霤の心が曇ったままなのには、理由がある。
兄には婚約者がいた。
結婚式を挙げる予定だった。
何日も前のことを思い出しながら、稀霤は醜くなった兄の肉塊に両手を伸ばす。
挙式当日、兄は姿を現さなかった。
よほどのことがあったのだと、親族一同は何日も帰城を待っていた。
そうして、姿を変え、兄は帰城した。
生きて帰城しなかった原因は、兄が禁を破ったせいだと告げられ、皆に告げ、変わり果てた姿を目の当たりにしても──嘘であってほしかった。
生きていてほしかった。
棺を開け、兄の姿を見た稀霤は、怒りに体を震わせた。
『この様な真似……我が城に対しても、十年仕えてきた兄上に対しても、侮辱の他にならない! 鴻嫗城への忠誠は、向こうが打ち砕いてきた。ならば……私自らがそれを受け止めたと、鴻嫗城との縁を切ってくるまで!』
なりふり構わず叫び、彼は生家を出る。
つい何日か前のことなのに、遠い昔のように懐かしい。兄の肉塊をていねいに包みながら、稀霤は走馬灯のようにぼんやりと記憶を再生していた。
ちょうど包みを抱いたころ、なじみの声が聞こえる。
「稀霤国王」
三男の声だ。
稀霤が声の方向へと顔を向けると、二メートルほど離れたところに姿がある。兄弟たちは切れ長の目だが、三男だけは幼い面影を強く残し丸い目をしたかわいい顔立ち。男ばかりの四人兄弟の中で、かわいいと冷やかされ続け愛されてきた男だ。
「ご無事で何よりです。さぁ、ともに帰城いたしましょう」
三男は眉を下げ、手を差し伸べる。
稀霤は骨壺と変わらない重さと、冷たさを腕に感じながら歩き始める。そうして、三男の手前で立ち止まった。
「『ご無事で何よりです』? 何を言っているんだ、お前は。私は鴻嫗城に決別を宣言しに来たんだぞ。私が存命するはずないだろう」
目を見開いた三男に対し、稀霤は包みを受け取らせる。
「『私の命はすでになかった』皆にはそう伝えろ。そうだな……これを持っていけばいい。今から涼舞城の国王はお前だ」
更に手渡された物を見、三男は動揺する。稀霤の死亡届と肩章だ。
「なっ?」
「包みは唏劉剣士の……帰城できなかった体の一部だ。……そのまま埋葬しろ。皆は見ない方がいい」
瞬時に三男の体が強張った。三男はうつむき、腕の中の包みを見つめる。
「妻はすまないが、お前に頼む。『王の妻』でいさせてやってくれ。新しい涼舞城を……」
意気消沈していく三男を見、稀霤は思わず言葉が止まる。それでも、今、別れを告げなければならない。
「義姉さんのこともあるのに……お前にすべてを背負わせて、すまないな」
稀霤は三男に頭を下げる。深く、深く。
三男は泣いている。
涙をこらえるような呼吸が聞こえた。だからこそ、見ていないように、気づいていないとように頭を下げ続けた。
三男が流した涙は、不安ではないだろう。恐らく、稀霤が兄の亡骸を目の前にしたときの感情と酷似したものだ。
三男を見ず、踵を返す。
稀霤が兄の亡骸を見たときとは、酷似していても違う。稀霤は、生きている。
死にゆく稀霤を止めたくても、三男は止めてはいけないのだ。
その辛さに、稀霤が気づいてはならない。
涼舞城に戻っていく足音が聞こえなくとも、稀霤は死に場所へと歩いていく。
稀霤が『今後こそ』と、決別を告げる覚悟で鴻嫗城の目前まで着くと、窓に紗如の姿が見えた。稀霤が気づいたとわかると、紗如は身振り手振りで懸命に左を示す。
──左に……何が?
時間を気にして走ってきた足を止め確認するが、特に何もない。
横目で再び紗如を見ると、今度は左を差しては歩くようにと動作で伝えてきた。
そういえば今朝、稀霤は誰にも見つからずに鴻嫗城から抜け出すのに成功している。自由はあったが、身柄確保された身だ。鴻嫗城から脱獄したとなれば、留妃姫との謁見よりも先に、伯父が飛んでくるかもしれない。
とうに死の覚悟はしているが、正面から突破しようとするのは確かにいい策ではない。──そんな風に稀霤がぼんやりと立ち止っている間も、紗如は動作を止めない。
──部屋を抜け出し、あんなところで……そんなことをしていい身分でも、体でもないだろう。
稀霤は妙に冷静になり、ため息をつく。
──昨日から……あの姫に会ってから振り回されてばかりだな……。
『紗如姫は何と言うか……自由奔放な方で』
そういえば兄が帰城したとき、時折困ったように笑いながらこう言っていたと稀霤は思い出す。
──仕方ない。
一先ず、稀霤は紗如に従うことにした。そして、兄もこの姫に振り回され続け、迷惑をしていたのだろうと渋々左側へと歩く。
向かった先で見つけたのは、細い通路。とはいえ、何かがあると見ない限り植物が邪魔をし、発見はできないような通用口だ。
「こんな入口まであるのか、鴻嫗城は」
思わず口走る。
『鴻嫗城は迷宮だ』
切れ者の兄が、何度も迷ったと冗談のように言っていたのは真実だったのかと、稀霤は苦笑いした。




