【21】命を重ね(2)
「兄の子を……その身に宿していたのですね」
言葉を聞いた途端、再び紗如の瞳から涙があふれていく。
「ぃや……いやぁ、いやぁっ!」
頭を、腹を、頬を触り、紗如は錯乱して泣き叫ぶ。
「あの人の子が! つい……さっきまではいたの? それなのに、私は……唏劉の命だけじゃなくて、あの人との子の命まで?」
癇癪を起したかと思えば、紗如はベッドから飛び降りる。
予想外の行動に稀霤は立ち上がり、走り出そうとしていた紗如の肩を咄嗟につかみ、抑える。
「嫌! 逝かせてっ。唏劉のところへ逝かせてぇっ!」
泣きわめく紗如をベッドに戻すのは無理だと稀霤は判断し、無理に抱き締めた。
稀霤が強く抱き締め、紗如が落ち着いたのは二十分ほど経ったころだ。
紗如は稀霤の腕の中で暴れたいだけ暴れ、泣き、揺さぶり、どうにか正気を取り戻した。
落ち着いた紗如は稀霤から離れ謝罪し、大人しくベッドに横たわっている。未だ、ポツポツと頬を滑る雫を拭き、遠くを見つめ悲しみを受け止めようと努めている。
稀霤は心身ともに疲労困憊し、ベッドの横の椅子に再び座って気休めに本を読み始めた。正直、紗如とはこれ以上関わりたくない。
兄の汚名の原因を察してしまった。
兄は『姫の望んだこと』を叶えたのだ。あの兄がと思えば、頭を抱える事態。心中おだやかではいられない。
荒ぶる気持ちと混乱する思いをどう処理するかと、稀霤が難題と向かい合っていると、
「あなたに、お願いがあるの」
と、紗如が呟いた。
「何ですか」
気遣いなしで返答すれば、思いもよらない言葉を言われる。
「私に、子どもを産ませてください」
「何を……」
「変な娘だとお思いになるでしょう? 初対面で、まだお互いの名前も……呼ぶような関係でもないのに。……でも、私。あの人の子までいなくなったと思うと、生きていけません」
『ひどいことを言っているのは、よく理解しています』と、紗如はうつむきながら言いにくそうに続けた。
紗如の血の気がすっかり引いている。体の負担のせいだけではないだろう。耐えられないほどの、心の苦しさが拍車をかけている。
身に宿した子を失う以上に悔いることは、女性にはない。
同情を向けてしまい、稀霤は隙を作っていたのか。いつの間にか紗如が稀霤の方へと身を乗り出している。
「お願いします。貴男にしか頼めないの。私は……」
「何も言わなくて結構です」
涼舞城を出る前まで抱えていた思いが過ってしまった。
稀霤は椅子から立ち上がる。本を椅子の上に置き、紗如へと近づく。
どうせ明日の昼までの命。これから紗如と、良好な関係を築こうとは微塵も思っていない。
それに、この世から去る算段はつけ生家を出てきた。戻ることもない。
頭に強い衝撃を受けた気分だ。混乱は収まっていない。どうにでもなれと投げやりになった。
姫への殺害未遂が、姫への慮辱に変わるだけだ。鴻嫗城を背きに来たことに変わりはない。
稀霤は兄の汚名を己のものにもするべく、ためらわずに紗如を可能な限り乱暴に扱った。
「ありがとう、唏劉」
紗如が止めどなく涙を流し、感謝を繰り返す。
彼女が呼んだ名は『兄』だろうが、稀霤には心底そんなことはどうでもいい。
『こんな姫のために』
兄の未来も、自身の未来も、生家の未来も、すべて変わってしまった。
稀霤の怒りは頂点だった。混乱が怒りの制御を、理性の制御を邪魔した。
意識は、いつから途切れていただろう。
何かが鼻をくすぐった。
稀霤はやわらかいベッドの上で、虚ろに目を覚ます。
「ごめんなさい」
「いいえ。大丈夫です」
大失態だ。疲れが重なっていたとはいえ、紗如に寝顔を見られたらしい。
最期の朝だというのに、目覚めが最悪だ。
体を起こし、衣服をまとおうと一瞥すれば、昨夜放った衣服が枕元にきちんと整えられている。
「自分を『他人』として扱われることには慣れています」
嫌味を言った。紗如に言い訳のひとつでもしてみろと。
それなのに、
「そう」
と、紗如はサラリと受け流す。
憤りを覚える。『他人』として扱った人間が、それを肯定したのだ。
寝起きの詫びは、建前だったことになる。
稀霤はガッと衣服を手にし、雑にベッドから出る。煮える思いを抱えながら身支度を整えていると、昼までに済ませなければならないことを思い出す。
早々に退出しようとした稀霤に、聞きたくない声が聞こえた。
「どこかへ行くの?」
「ええ」
怒りを抑えないまま、稀霤は答える。
しかし、紗如は何のその。ほんわりと核心を突く。
「今、貴男は普通に鴻嫗城を出入りできないんじゃないかしら?」
『誰のせいで』と、稀霤が言いそうになったとき、
「大丈夫。教えてあげる」
と、紗如は照れたように笑う。
時計を見れば紗如の言葉を信じ、従った方が賢明だと稀霤は判断した。憤りを鎮め、耳を傾けた。
そのお陰で稀霤は、無事に鴻嫗城の外に出られる。草木に隠れる色彩をした、人がひとり通れるほどの扉を閉め、自慢げに言われた道のりを思い出す。
紗如の言葉を信じなければ、決して辿り着けない場所だった。人が多い鴻嫗城で、まさか本当に誰にも会わずに出られるとは思っていなかった。
紗如曰く、鴻嫗城の内部でもほんの一握りしか知らない出口。確かに、これほどかんたんに出られると不特定多数に知られたら、おおごとになるだろう。
──そんなにも私を信じていいものか。
感謝よりも紗如の警戒心を疑う。
とはいえ、鴻嫗城から出る前に生家に連絡もできた。感謝しなくてはと頭では思いつつも、憎らしい思いは変わらない。
しばらく走り、赤土へと変わっていく中で、稀霤には消化しきれない気持ちが渦巻いてきた。
『忠誠を誓い、示し続けたはずの護衛が禁を破った。……姫を凌辱した。罪は身を持って償わせた』
兄の躯が到着する前、稀霤が受けた一本の電話。
声の主は父の兄──留妃姫の護衛からだった。




