【19】尊敬と
この章には残酷描写(グロい場面)があります。
風が砂を巻き上げる。
赤土が広がる地を大臣は歩いていた。
彼はあることをしに、この地へと来たはずだった。
彼はぐったりとしていた。そのせいだろうか。歩く目的さえ忘れてしまっていた。
──私は、どこを歩いているのだろう……。
ふと、異臭が鼻を突き顔を上げる。
この臭いは、いわば『死臭』。
顔を上げ、気づく。半球体や円錐の臙脂色の屋根。離れていても圧巻とする姿の鴻嫗城が見える。
──そうか。あと数時間で鴻嫗城に……。
そうして一瞥したとき、彼は一点で釘付けになった。
何かが吊るされている。その『何か』は、彼の体中に衝撃を走らせるもので──瞬時にして彼はすべてを思い出す。
「兄上!」
無意識で駆け出す。あれほど重かった疲労感は、なかったかのように。
このとき、彼は『大臣』ではなかった。
彼は当時、二十五歳。リラの瞳に同色の髪で、長い後ろ髪は高級な髪留めがしっかりひとつに束ねている。腰に愛用の長剣を携え、肩章には涼舞城の王位を示すものがあった。
彼は鴻嫗城との決別を決意し、告げに来たはずだった。
だが、迷いがあった。
鴻嫗城の決別を、兄が望んでいるのかと。
赤土の上を走り抜け、高々に吊るされているところまで辿り着いた彼は、見るに耐えないものに語りかける。
「どうして……」
目の前にするのは、血液を出し尽くし、皮膚を赤黒くした乾きかけの生首だ。死臭の原因はこれだと特定できるほど腐敗臭がひどい。皮膚が剥け腐り、蛆虫が喜んでいる。
けれど、彼にえずくような気配はない。異臭を吹き飛ばすほどの悲しみが支配している。吊るされて見るに耐えない生首に、震える両手を伸ばす。
「兄上……」
身元の判別が難しい生首の主を、家族で帰りを願った唏劉だとひと目で断定する。虚ろに半開きした、すでに見えぬ瞳を見、涙があふれて止まらない。
「貴男ほどの人が……何をそこまで……」
兄が戦いに負けることは、決してないと信じ切っていた。彼にとって兄の死は想定外な事態。尚且つ、首を切り落とされてさらされる屈辱を受けるなど、想像したことすらない。
嗚咽をもらす。
ひどく苦しい。
苦しみにもがきながら、大臣は瞳を開けた。
「はっ……っ……」
呼吸がやっとできるというほどの、早い脈。
右手が触れるのは、しなやかなシーツ。見上げる天井は高々とし、見慣れた色の気品漂うクリーム色が映る。
ベッドの上だと理解する。いつの間にか日常と化していた空間に、現実はある。大臣は数分間荒い呼吸を続け、遠き日の記憶を夢に見たと理解し、悪夢と消化しようと努める。
いつになく寝汗をかいた。無理に体を起こし着替えていると、扉をノックする音が聞こえた。数秒あれば衣服が整う。短く了承を返す。
扉が開き、見上げるのに慣れた百八十センチほどの人物が姿を現した。
「大丈夫……か?」
クロッカスの瞳が心配そうに大臣を見つめる。頑なに後ろ髪のすべてを伸ばそうとしない瑠既だ。
「はい、申し訳ありません」
首を垂れれば、ひとつにまとめた、さほど長くない白髪が大臣の視界に入る。
気品と物静かさを携え、どこかに隠したような気高さと、それを打ち消すような控えめな態度。歳を重ね老齢となっても尚、服装に相応しくあるよう凛とした所作を心がける。
「珍しいっていうか……意外だった」
「年には私も勝てないですね」
苦笑いを浮かべた大臣に対し、瑠既はからかうように笑う。
「『今日は休みたい』と言ったのもそうだけど、俺を頼ってくれるとは思わなかったってこと」
おだやかな声に大臣は首を傾げる。
「そうですか?」
何がおかしいのか、瑠既は笑いながらうなずく。そして、
「駄目だな、俺」
瑠既はひとりごち、大臣に語りかける。
「やっぱ駄目だった。俺、大臣のこと憎み切れなかった。いや、それどころか……だから俺の負け。悪かった」
「何の話です?」
唐突な内容に大臣が問うと、瑠既は『う~ん』と唸り、言いにくそうに口を開く。
「前に、大臣のこと……疑ったじゃん? あれだよ。……悪かった。何だかあのときさ、全部が信じられなくなって……」
「ああ、あのときのことですか」
大臣は当時を思い出す。あれは沙稀の死後、ようやく落ち着きを取り戻したときのこと。
沙稀の出生を偽ると瑠既に話したときだ。あのいざこざは、偽ると話せば瑠既は怒ると想定していて、現実になっただけだった。嫌われようが軽蔑されようが仕方がないという覚悟が大臣にはあり、当然だと受け入れた。
だからこそ、大臣は目を丸くし、瑠既の言葉に感謝する。
確かにあの時期、瑠既には自暴自棄な部分があった。けれどそれは、失った者の存在がそれだけ大きかったということだ。大臣にはよくわかる。
「乗り越えたのですね」
「お蔭様で。手のかかる息子で毎度すみませんね」
「はい?」
間の抜けた声を出す大臣に、瑠既は右手を振り静止する。
「ああ、いいのいいの。その返事は聞かない」
まるで、独り言のようだ。
「そうですか」
大臣が相槌を打つと、瑠既は日頃大臣が座っている机へと近づく。
「俺が勝手にそう思っているだけ。俺はそれでいいと思っているんだけどさ、沙稀はそうじゃないと思うし」
「瑠既様のお言葉は意外でしたが……まぁ、沙稀様はそうでしょうね」
「でしょ」
瑠既の弾む声に、大臣は笑う。書類を手に取り、
「はい。嫌がられると思います」
と、瑠既の想像の話に合わせ、笑いながら言う。
瑠既は『そうそう』と相槌を打ち、
「しかも『すっごく』ね」
と、大笑いだ。
瑠既の楽しそうな姿に、大臣は更に眉を下げうなずいた。
そのままふたりは軽く仕事の話をする。説明のあとに大臣がサラリと理解度を確認し、瑠既から質問がある度、大臣は適度に答える。
そうしてザックリと話し終わったころ、
「うん。わかった。でも、全部をできる自信はない」
と、瑠既は断言する。
「構いません」
大臣は即答したが、『だから』と瑠既は続ける。
「何日休んでもいいから、体調をちゃんと改善させろよ」
ぶっきらぼうで拗ねるような言い方だ。
「わかりました」
大臣は了承したものの、顔の筋肉がゆるむのを抑えられなかった。
何年ぶりにこの仕草を見ただろう。まさか、沙稀のこんな癖が、瑠既にも見られるとは思っていなかった。
大臣は我に返り、表情を気にして左手で頬に触れる。
問題ない。威厳は保たれたようだ。
一方の瑠既は手際よく書類をまとめている。その姿に、ふと大臣の口が開く。
「瑠既様……まったくの初めてではないのでは?」
大臣の言葉に瑠既は手を止めた。
少しだけ大臣に顔を向けた瑠既はグチグチと文句を言うような口調で話し出す。
「昔……沙稀から何回か聞いた。わかんなかったとこは恭良から。本当、恭良って頭よかったんだな~って思ったよ。細かいとこまでていねいに教えてくれるし、バカにするような態度はとらねぇし」
「沙稀様の方が教え方はていねいでしょう? 沙稀様に聞けなかっただけでは?」
『そりゃあ』と、瑠既は笑う。
「沙稀には聞けねぇよ。ガキのころからアイツの方が何でもできたもん」
「そうですか?」
うなずく瑠既に抱いている劣等感を感じ、大臣はあえて言う。
「私はそうは思いません。たぶん、沙稀様もそうは思っていなかったと思いますよ。まぁ、私と意味は違いますけれど」
そう言ったところで瑠既の劣等感が払拭されるとは微塵も思っていない。だからこそ、大臣は呟く。
「人間は、誰しも……誰かを羨んで生きるのかもしれませんね」




